誰かのためになるならば
まずは「自分」を大事にすることから始まる。
健康第一なのはもちろん、常日頃から幸せを感じて
自分を満たすための行動を怠らないだろう。
そうして自分がある程度は満たされたなら、心の余裕ができた時に、初めて周りの人間を見渡そう。
一番身近な人というと「家族」である。
家族に対して、自分のできることは自ら進んでやる。時には家族への日頃の思いやりから、出先からお土産を買っては喜ばせようとするだろう。
結婚も、子育てもする年頃になった。
それぞれの環境の変化により、昔ほど会うことは少なくなったが、それでも「友人」のおめでたい事には心から涙が出るほど嬉しく感じた。
子どもが無事産まれてきたことの吉報は、それよりもさらに号泣してしまうほどで、友達の子ども達は私にとっても特別で愛おしく想う。
私は、見知らぬ他人のために生きることはできないし、損得抜きではしない。
しかし、私の愛おしく思う人々は、周りにいる。
まずは自分と、周りにいる人々をより大切にしたい。
両手で持てるほどの小さな力だが、これからも自分のできる限りのことをしたい。
それが、自分のためにもなるから。
鳥籠。残念ながら、鳥とはそれほど縁がない。
なぜなら、鳥は空を自由に飛ぶ生き物。
青い空の世界の生き物は唯一、鳥だろうと思う。
彼らは大きな羽を羽ばたき、風に乗っては曲線を描き、時には木や電線に留まる。
その自由さが美しく、鳥籠は必要ない。
天候や自然は儚く厳しい時もあるだろう。
それでも何度も何度も危機をくぐり抜け、そして今日も下界を見下ろしながら飛んでゆくのだ。
友情の始まりはいつからだろう。
ある友達は、自分と誕生日が同じだと思ったらしく、それまではほとんど話したこともなかった私にハンカチのプレゼントをくれた事がある。
ただ、私の誕生日は一ヶ月後だった。
友達の思い違いから始まった私達の友情は、漫画好きなこともあってそれは中学まで続いた。
高校からの友達は、最初はすぐ仲良くなれたわけではない。入試の日に私に声かけたそうなのだが、私は全く気付かなかったため、第一印象が悪かったらしい。
同じ部活に入って、イベントも同じ班だった。それでも私はシャイな性格で、なかなかみんなの輪に溶け込めなかった。
夏休みを前にして、思い切って髪をベリーショートにした。すると、意外にも周囲から大好評で、皆との距離感がグッと縮んだ。
私のこの行動によって、高校生活は青春を楽しく過ごせたといっても過言ではない。
部活の先輩たちも含むメンバーは、それぞれが結婚し、子育ての真っ只中になっても、私達はいつでも集まれば あの頃に戻れるのだ。
高校を卒業してから、知人のお誘いで大学のオープンキャンパスへ行った。そこで、知人のサークル仲間だという男女の何人かと顔合わせた。
その中の女の子が自己紹介を始めたとたん、ビビッときた。
(私、この子と仲良くなりたい!!)
まるで一目惚れのように、そんな風に思ったのは初めての体験だった。
それからも、その子とは個人的に連絡先交換し、一緒に遊びに出かけた。もはや親友である。
また、大学生や社会人も参加できる趣味のサークルに混ぜてもらった。友達の紹介や集まりなどで少しずつ仲良くなり、気が合う友達が何人もできた。おかげさまで、10年経った今も付き合いはまだ続いている。
友情とは、どうやって始まるのか。
それは「相手と仲良くなりたい」と思ったら、積極的に話しかけたり遊びに誘ったりして、自分から“心を開く”のが大事なのではないかと私はそう思う。
これから先も人生はまだまだ長い。
いつ、どこかで、新しい出会いがあるかもしれない。
どんな人と友達になれるのか、今から楽しみでならないのだ。
「チューリップの花が咲いてきた!…んだけど」
母が苦笑いしながら言った。
「…ちょっと、思ってたのと違った」
「は?????」
ベランダで、季節の花や食べられる野菜などを育てるのが母の趣味である。
母の言葉が気になって、ベランダへ向かうと
その鉢にはチューリップの長い葉っぱがあるだけ。
「え?花はどこ??咲いてる?」
近くまで寄って、よーーーく目を凝らしてみると
なんと、大きくて立派な葉っぱの中にひっそりと花が咲いてるではないか。
背の低い茎のまま、それはチューリップの色だと分かる花びらが控えめに開いている。
確かに思っていたのとは違っていて、私も困惑した。
これは失敗作か?何か栄養が足りなかったのか?
このチューリップはそのまま枯れておしまいになるのかと思ったが、その心配は杞憂に終わった。
茎がぐんぐんと伸びてきて、数日後には花びらが全開になり、それはそれは立派なチューリップになった。
こうして、花好きな母はチューリップ達が枯れるまで満足そうに愛でいたのだった。
タイムマシンがあったなら。
昔の自分と、その家族へ会いに行く。
私は子どもの頃から常に母の後ろに隠れているような、とてもシャイな子だった。そして泣き虫だった。
今なら分かる。
私は生まれつき耳が聞こえない。
補聴器は2才から着けていたけれど
当時はパソコンはおろか、ネットワークはまだ発達していなかった。
親を含む周りの大人達は、
「補聴器を着けていれば聞こえる。」と誤解をずっとしていた。
誰も、その事を疑うこともしなかった。
補聴器を着けていれば聞こえるというわけではない。
それはとんでもない勘違いだったのだ。
外部から全ての音を拾い、更に大きくする。
それは合っている。
しかし、私の場合。ここはあえて私の場合とする。
【感音性難聴】である。
それはどういうことか?
それは脳の問題なのか、それとも聴神経に問題があるのか。それは今も原因は分からない。
しかし、分かることはただ一つ。
私が補聴器を着けていたとしても、補聴器によって取り込んだ"音"は歪んでいるのだ。
常にモヤがかかっていて、音が"音"として、言葉が"言葉"として聞くことができない。
つまり、言葉が【不明瞭】なのである。
だから、相手の声やどこかしらから流れる音がどのようなものであっても、相対的に分かりやすく【高い】か【低い】か-だけなら、まだかろうじて分かる。
特定の場所から流れる、特徴的なリズム感のあるもの-例えば遮断機の警告音や救急車など-であれば、視覚的なことも補って認識してるものはある。
ただし、それも相当近くならないと何の音かは分からないだろう。
…そういうわけで、子どもの頃の私は、自分が補聴器を着けていても相手の話が分からなかったのだ。
目の前にいるのに、相手の話が分からない。
みんなの話の輪に加わることができない。
それは、言葉を言葉として聞き取れないからだ。
もちろん口の形を読めば、読み取れることもある。
しかし、幼い私はまだそれほど多くは、言葉の意味を理解できる年頃ではなかった。
皆には、想像してみてほしい。
自分以外は 全ての人達が宇宙人だ。
ほとんどが歪んでいてモヤがかかっていてそれは自分が知る音ではない、そんな言葉があらゆる人々から到底聞き取れないスピードであなたへ一斉に向けられたら?
あなたなら、相手と対話ができますか?
昔の自分に会って、それでも自分がどうするべきかを教えてやりたい。
そして、家族には「声」だけがコミュニケーションではないことを伝えたい。
今、あなた達の娘は、今もディナーテーブル症候群によって孤独に晒されている。