自由に飛び回る鳥たちは、わたしにとっての憧れだ。
空を飛ぶのはどんな感じなんだろう。気持ちいいかな。疲れるかな。鳥になってみないとわからない。
いつか鳥に生まれ変わったら、自由に飛び回りたい。翼をはためかせて、力強く飛び回りたい。
疲れたら、電線に止まって、街を、人々を、俯瞰してみてみたい。きっとそれぞれの人間の数だけのドラマを垣間見ることができるだろう。
こうやって、上からみていると、人の放つオーラがはっきりとみえる。
悲しみの渦中にいる人が抱える、闇のような影を落とす暗いオーラは、特に目立ってみえる。
しかし、よくみてみると、眩しいほどの光を放つ明るいオーラが、闇のような影を落とす暗いオーラと手をつないでいることに気がつく。
光と影は、まさに”表裏一体”だ。
これに気がつくことが、人生において重要なことの一つだ。
しかし、これに気がつくのは”ずっと先の未来”だ。
光と影は二つで一つ、分けることはできないんだよな。
鳥になったわたしは”ずっと先の未来”の記憶を思い出して、そして忘れる。
_________空に向かって__________________________。
わたしは、第一印象でその人の全てを判断してしまいがちだ。
しかし、実は、第一印象はその人の素顔とは全く違う”想像上の人”を、”わたし”が頭の中で勝手に創り出しているだけなのかもしれないと、最近気がついた。
第一印象が怖いと思った人でも、話してみると分かりにくい優しさが滲み出ていることに気がつくときがある。
優しいことに気がついた後、少し時間を空けてまた話したときに再び、怖いと思う瞬間もあるのだが。
また、人はそのとき置かれた環境によって変化することもある。
ここでいう環境の大部分を占めるのは、”人”だ。正確には、”複数の人が属しているコミュニティ”の中で相互作用が起き続けている。
このコミュニティによって、木でいう葉の部分のように小さな習慣の変化が起きることもあれば、木でいう根っこの部分のように、その人もつ信念が180度大きく変わることもある。
人は、死んだときに「〇〇な人だった」と言われる。
若いときはこうだったけど、最期はああだったねと。
死んだときに初めて、”その人”は”どういう人”であるのか、一言で言い表される。
つまり、死ぬまで”その人”は”どういう人”であるのか、一言では言い表せないのではないかと思う。
だからといって、自分が死んだとき、人にどう言い表されるかを意識しながら生きていくことはナンセンスだ。
誰か一人の、”ほんの小さな生きる希望”になれたら、”その人”は”誰かの小さなヒーロー”だと思う。
どんなに小さなことで、誰にも評価されなくても、これが生まれた意味とははっきり言えなくても、いつか最期を迎えたときに、きっと、生まれてきてよかったと思えるから。
わたしは、はじめましてと言葉を交わしたときの第一印象でその人のことをわかった気になるのではなくて、その人の命の灯火が消える最期まで見続けていたい。
どんな人でも、”はじめまして”では気がつかない隠れた優しさもあれば、生涯をかけて少しずつ変わっていくところもあると思うから。
だからこそ、”人生”は面白い。
________はじめまして___________________________。
夜、眠りに就くとき、辛いことでこころがいっぱいになっていたら、地続きになっている夜と朝がすべて深い深い闇に包まれてしまうから。自分の記憶に永遠のさようならをいって朝を迎えることを拒んでしまう。
目覚めたときの絶望感が、その日一日を生きることへの絶望感を生み出す。
少しずつ、意味があるかわからないけど、自分にできることをコツコツと継続していく。
すると、できないことに落ち込むこともあるんだけど、できることがほんのちょっとずつだけど増えていることに気がつく。このほんのちょっとがとても嬉しい。
そして、目の前に立ちはだかっている厳しい現実は変わらないのに、朝目覚めることが楽しみになってくる。
どのタイミングだったのかわからないが、気がついたら、夜眠りに就くとき、明日が来ることの喜びが、絶望感を上回っている。
さようなら!絶望感で満ちていた自分のこころ。
またね!たくさんの喜びでこころを満たしながら生きていくわたし。
_________またね!______________________________。
春風は、こころの泉から希望が湧いて出てくることと、関係があるのではないか。
今日この頃、春風が優しく頬を撫でていく。それがとても心地よい。
春風がこころと化学反応を起こしているのか、わけもなく、”こころの泉”から希望が湧いてくる。何の根拠もない希望だ。
これまでのわたしの固定観念が、それを否定する。すると、”こころの泉”から希望は湧いてこなくなり、やがて枯れてしまう。
だけど、そのうちちょっとしたことがきっかけになって、希望が宙から降ってきて、”こころの泉”は希望で少しずつ満たされていく。
希望は減っては増えて、また減ってを繰り返しながら、確実に少しずつ増えていく。
そして、”こころの泉”から湧いて出る希望は、少しずつ”現実”にも希望をもたらしていく。
いつか春風とともに過ごした日々を、時間を愛おしく思うときがくるだろう。
春風は、そのときが来るまで、季節が移ろってもわたしとともにある。
________春風とともに___________________________。
嬉しいときも、怒ったときも、悲しいときも、楽しくて仕方がないときも、涙は流れる。
感情が、自分のこころのメーターにおける閾値を超えたとき、つまり感情の高ぶりに合わせて涙は流れる。
反対に、わけもなく流れる涙もある。
涙の出身地は、自分の心の海である。海と一括りに言っても、浅瀬もあれば、最深部もある。
わけもなく流れる涙は、深くて自分の意識が届かないところから来た涙だ。
この、喜怒哀楽で表現しきれない涙の理由を、分かる日が来るのだろうか。
この涙の答え合わせは、今はできないと割り切ろう。
きっと、あるタイミングとかではなくて、じわじわとこぼしたコーヒーが紙に染み込んでいくように、答え合わせができていくのだと思う。
だから今は、気ままに小さな幸せがある日々を大切にしていこう。
________涙_____________________________________。