雲りの日は、どんよりして気分が晴れない。
天気というのは、人のこころにダイレクトに影響する。だから、たまに天気との付き合い方を見直して、自分のこころの状態をフラットにする必要がある。
『雲の楽しみ方』という本が、イギリスでベストセラーになった。
この本は日本にも上陸したが、その帯にはこんな記載がある。
【”もし、くる日もくる日も青一色の空を見せられたら、人生は退屈だ———。”(ギャヴィン•プレイター=ピニー)】
確かにと思う。毎日同じ空だったら、”快晴の空”は”いつもの空”でしかない。空が青く透き通った美しさは、あまり感じられないだろう。
人生は、天気のように移り変わる。
人生も、天気のように晴れのち曇り、雨のち晴れのように移り変わる。どんな状況であっても楽しんで生きると、ほんの少しだけ自分からみえる景色は変わるかもしれない。
雲をみる度にそのことを思い出せるように。
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____________雲り。______________________________________________。
大人になれなくて、焦ってもがいて、自分を責めていた。
大人になるために殻を割ることができない自分が、子どもでも大人でもない、世の中から認められない存在だと思っていた。
大人になったら、1人の自立した人間として認めてもらえる、早く大人にならないとと思っていた。
でも、なれなかった。みんなと足並みを揃えて歩くことができなかった。
もう少し頑張ってみたらとか、そのうち慣れるとかいわれて、それも本当なんだなと思う。
だけど、大人になろうともがいていたとき、毎日苦しかった。これまでにない絶望感で、目覚めていた。また今日も迷惑をかけてしまうんだろうな。でも、失敗はしないようにしないと。そんなことばかり考えていた。
わたしは、生きることに疲れ果ててしまった。
わたしは、たくさん考えて、結論を出した。それは、”なりたい自分になれない自分を責めることをやめること”だ。そして、大人になろうと背伸びをしないことだ。
限界はないとか、不可能を可能にするとか、そういう諦めないことをよしとする言葉がある。
こういう言葉はときとして、人を励まし力を与えてくれる。
しかし、状況によってはこの言葉は凶器にもなる。
頑張れない自分を責めて、自分の心を傷つけてしまう。心が傷ついたら、身体も傷つけてしまうほど、人間は心も身体も密接につながった生きものなのだ。
そのときのわたしは、後者の方だった。
だから、”なりたい自分になれない自分を責めることをやめること”をしていくしかない。
自分にできないことは、できるように頑張るけど、できないことばかりで、疲労感が達成感を上回る毎日だったら、それを耐え忍ぶことが困難なときがある。
苦手なものは苦手なんだ。それをどうかわかってほしいけど、自分の感情を相手に伝えることはほんとうに難しい。
気持ちいい春晴れの日に、草原で寝転がっているような、自分が心から安らげる場所はきっとこの世にあっても、ずっとそこにいることはできない。生きている限り、困難に直面するときは必ずある。人間はそういう生きものだから。
しかし、自分が息をしやすい環境を探すことはできる。息ができなくてずっと苦しいのならばそうしてもバチは当たらないだろう。
自分の息のしやすい環境で、誰かの酸素になって息をしやすいように手伝えたらどんなにうれしいだろう。そんな都合のいい想像をしてもバチは当たらないだろう。
“なりたい自分になれない自分を責めることをやめること”で、わたしは、わたしなりに”一人の人間”として、人との関わりを恐れずに生きていきたい。
_______bye bye… _____________________________。
君とたくさんの時間を一緒に過ごした。
過ごしてきた時間の分、君とわたしは同じ景色を見ているはずだけど、その景色をみて生まれる感情は、君とわたしで全く同じではない。
感情というのは、共通点こそあるものの、人それぞれでほんのちょっと違う。
雨が降っているとき、君もわたしも少しどんよりした気分になっている。一方で、わたしは傘に雨があたる音に癒されてもいる。これは、言葉で説明できることだ。違いが具体的にわかる。
言葉で表しきれない感情は、人の数だけたくさんある。だから、言葉で表しきれない感情の全てを、君とわたしで互いに知ることは不可能に等しい。
嬉しい、怒り、悲しい、楽しい、同じ言葉で表せる感情でも、その感情を言葉で表しきることはできない。
君の感情の全てを知ることはできないけれど、知ろうとしたい。君とわたしの感情の全てが全く同じことはないけれど、歩み寄って理解しようとしたい。
自分の感情すら理解できないのだから、かなり難易度は高いのだろうけど。
感情は、人との関わりのなかで、醜いけど美しくて、弱いけど強くて、苦しいけど楽しい、ちぐはぐな化学反応を起こす。
感情は宇宙空間よりも、もっともっと広いのかもしれない。
その広い宇宙空間のなかで、君の感情を離さないように、でも優しく繋ぎ止めておきたい。
君もわたしの感情を繋ぎ止めておいてとは言わないけれど、どうか、たまにでいいから想い出してほしい。
_________君とみた景色__________________________。
わたしは、わたしと真逆の性格の、もう一人のわたしとけんかをした。
そのけんかの理由は、互いに”自分では絶対にしないような言動や行動”をしていて、全く理解できないからである。
やがて、話をしなくなった。互いにいないものだと思ってやり過ごした。
わたしともう一人のわたしは、いつまで経ってもそんな調子だった。
それをみかねたある人が、わたしたちの間に入ってきた。
その人は、わたしともう一人のわたしを足してニでわった中間にある人で、わたしともう一人のわたしの気持ちのどちらもわかっている。
わたしともう一人のわたしの話を、何度も頷きながら話をきいて、思いを受け止めてくれた。
そして、わたしともう一人のわたしは、危ないところへいくのではなく、着実に丁目いいくらいのところを目指していくことを諦めないことにした。
中間にある人は、目では見えないし耳では聞こえないが、いつも自分の心の中にいる。見守ってくれるときもあるし、見張っているときもある。
価値観に縛られることもあるけれど、それに気がついたら軌道修正していけばいい。価値観が違っても、手を繋ごう。手も心も温かい気持ちになるだろう。
______________________手を繋いで_______________。
一度だけ白昼夢でみた場所がある。
そこは、わたしの知らない場所だった。
機関車が走っていた線路がそのまま残されていて、その周りには緑が生い茂っている。
線路に向かって、雲の切れ目から光が差し込んでいて、天使の梯子が降りている。
光が降りた場所には、白い扉がある。
扉には、ドアノブがついていない。
どうやって開けるんだろうと思いながら扉の前に立つとその扉がノックされる音がきこえた。
その音に気を取られている間に、ところどころに苔がついたドアノブが、私が来るずっと前からそこにあったように、扉についていた。
わたしはそっとドアノブに触れて、回す。
すると、そこは映画館だった。私が生まれる前に上映された映画がスクリーンに映っている。
その映画のタイトルは思い出せないが、何度も何度もみたから内容はほとんど頭に入っている。
主人公が生まれてから死ぬまでを描いた映画だ。
その映画は間違いなくわたしが昔何度もみた映画だが、みたことのないシーンがある。それどころか、一度もカットされずに進んでいく。
不思議なことに、たった数秒の白昼夢で、何十年の人生を全てみれるのである。時間という概念はそこにはなかった。
こうやって、人生をカットなしで俯瞰してみると、大きな出来事ではなくて、ニ時間の映画に入れ込むことができなかった、ささいな出来事に対して、主人公が笑ったり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりするシーンに心がジーンとする。
喜怒哀楽の”四つの感情”があるから、人間は、人間らしく、人間として生きられるんだなと思う。
そして、ささいな出来事が少しずつ積み重なってきた頃、ニ時間の映画に入れ込まれた大きな出来事が起きるシーンが映る。そして、そのシーンをきっかけに、物語が新たなフェーズに入る。
きっと、わたしは自分自身を主観的にみていることが多いからわからないけれど、わたしの人生もささいな出来事が少しずつ積み重なって、大きな出来事があるのかもしれない。
出来事は点と点で離れているわけではなくて、点と点がいつか結ばれるのかもしれない。その線は、自分では全てわからないけれど。
これに気づいたところで、白昼夢から覚める。寝ていたことはわかるけれど、夢をみていたことすら覚えていない。
図書館の端の席でフィクションの冒険小説を読んでいる途中だったみたいだ。
既に開いていたページを読んで、ページを一枚めくる。開いたページの左側は一面がイラストになっていた。緑が生い茂っている場所に線路があり、そこに天使の梯子が差し込んでいて、白い扉がある。その瞬間、白昼夢を思い出す。
このちょっとした出来事の点も、いつか起こる出来事の点と結ばれるのかもしれない。
__________どこ?_______________________________。