一度だけ白昼夢でみた場所がある。
そこは、わたしの知らない場所だった。
機関車が走っていた線路がそのまま残されていて、その周りには緑が生い茂っている。
線路に向かって、雲の切れ目から光が差し込んでいて、天使の梯子が降りている。
光が降りた場所には、白い扉がある。
扉には、ドアノブがついていない。
どうやって開けるんだろうと思いながら扉の前に立つとその扉がノックされる音がきこえた。
その音に気を取られている間に、ところどころに苔がついたドアノブが、私が来るずっと前からそこにあったように、扉についていた。
わたしはそっとドアノブに触れて、回す。
すると、そこは映画館だった。私が生まれる前に上映された映画がスクリーンに映っている。
その映画のタイトルは思い出せないが、何度も何度もみたから内容はほとんど頭に入っている。
主人公が生まれてから死ぬまでを描いた映画だ。
その映画は間違いなくわたしが昔何度もみた映画だが、みたことのないシーンがある。それどころか、一度もカットされずに進んでいく。
不思議なことに、たった数秒の白昼夢で、何十年の人生を全てみれるのである。時間という概念はそこにはなかった。
こうやって、人生をカットなしで俯瞰してみると、大きな出来事ではなくて、ニ時間の映画に入れ込むことができなかった、ささいな出来事に対して、主人公が笑ったり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりするシーンに心がジーンとする。
喜怒哀楽の”四つの感情”があるから、人間は、人間らしく、人間として生きられるんだなと思う。
そして、ささいな出来事が少しずつ積み重なってきた頃、ニ時間の映画に入れ込まれた大きな出来事が起きるシーンが映る。そして、そのシーンをきっかけに、物語が新たなフェーズに入る。
きっと、わたしは自分自身を主観的にみていることが多いからわからないけれど、わたしの人生もささいな出来事が少しずつ積み重なって、大きな出来事があるのかもしれない。
出来事は点と点で離れているわけではなくて、点と点がいつか結ばれるのかもしれない。その線は、自分では全てわからないけれど。
これに気づいたところで、白昼夢から覚める。寝ていたことはわかるけれど、夢をみていたことすら覚えていない。
図書館の端の席でフィクションの冒険小説を読んでいる途中だったみたいだ。
既に開いていたページを読んで、ページを一枚めくる。開いたページの左側は一面がイラストになっていた。緑が生い茂っている場所に線路があり、そこに天使の梯子が差し込んでいて、白い扉がある。その瞬間、白昼夢を思い出す。
このちょっとした出来事の点も、いつか起こる出来事の点と結ばれるのかもしれない。
__________どこ?_______________________________。
『本に印刷された言葉が、文字という形態からはみ出て、本のページをキラキラと輝かせた。』
わたしは人生で一度だけ、この体験をした。
それは、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』を初めて読んだときのことだった。
この本のタイトルだけでみると、悲しいイメージがある。しかし、この物語は悲しいだけではない。愛に溢れる物語である。
わたしはこの物語を読んで、愛することや愛されることについて深く考えさせられた。
西の魔女、つまり主人公まいのおばあちゃんが、どんなことがあっても、まいを愛して受け入れている。
愛というものは、不確実で目に見えないものだけど、わたしはこの本のページがキラキラと光り輝いたくらい、おばあちゃんの愛が伝わってきた。
だれかを駆け引きや忖度なしで、ただただ純粋に愛するということは、簡単なようで難しいのかもしれない。
『本に印刷された言葉が、文字という形態からはみ出て、本のページをキラキラと輝かせた。』このような不思議で温かい気持ちになる体験を、自分自身の人生でもできるだろうか。
愛が伝わらない人や、互いに心が通わないこともある。そういうときがあっても、愛することを、愛されることを諦めない。きっと”どこかの誰か”には伝わるし、心を通わすことができるから。
気恥ずかしいけれど、いつか大好きな家族や友達に、まいのように”大好き”を言葉で伝えたい。
______大好き___________________________________。
叶った夢がすべて実現したら、どうだろう?
それは、とても素晴らしいことだけど、すべてが叶うことなんて絶対にない。それが夢だ。
叶わなかった夢があるから、新たな夢を描く。
叶わなかった夢より新たな夢が劣っていることは絶対にない。
だから、叶わない夢があっても、新たな夢を描いて、その夢に向かって走り出せばいい。走るのが難しかったら歩いてもいい。道草をしたり、来た道を少し戻ったりする時があってもいい。きっと少しずつではあるし、人によってスピードは違うけれど、前に進んでいく傾向が人間にはある。
この世界では、結果で評価されるけれど、だからといって結果だけにこだわっていると、あまりにもつまらない人生になりそうだ。
死ぬときに、魂と一緒に何か大切なものを持っていくことはできない。だから、死ぬことは”思いを託す”ことでもあると思う。
つまり、生きている間に、人との関わりのなかで、自分が人に残した思いは、わたしのなかにも、この世界にも、残すことができる。
夢を見た目的が、だれかのこころの拠り所になることだったら、その夢はこれから叶う可能性が十分にある。
目的を明確にしたら、きっと叶わぬ夢とすぐに決めつけてしまうことはなくなる。目的は見失わないようにどんなときでも再確認することが大切だ。
なにはともあれ、今を生きる、それだけだ。
_______叶わぬ夢________________________________。
わたしが、1番すきな花はチューリップだ。
子どもの頃に、そのとき住んでいた家の小さな庭に、チューリップが咲いていた。
わたしが、このことを思い出したのは、チューリップとわたしの二ショットの写真をみたからだ。
チューリップよりも、わたしの背丈は高いが、あまり大きな差がない。わたしとチューリップは友達みたいに並んで写っていた。
チューリップの香りは、そのときの気温や環境などにより、香り方が異なるそうである。そのため、チューリップの香りを今まで何度も嗅いできたはずだが、わたしははっきりとチューリップの香りはわからない。
しかし、香りがはっきりとわからないのに関わらず、チューリップの香りはわたしを小さい頃に連れていってくれる。走り回って遊ぶことが楽しくて仕方がなかったあの頃に。
今年は、何年かぶりにチューリップの球根を植えた。もう芽が土のなかからニョキっと出てきている。
身長は、私の方がだいぶ高くなったけれど、また友達になってくれないかな?ちょっと恥ずかしいけれど、あの頃みたいに並んで写真を撮るのはどうかな?
あの頃から何千日と日々を生きてきて、何度目かの春がもうすぐ来る。
春の訪れを待ちわびている、ある冬の日。
_____花の香りと共に____________________________。
ものごころついたころから、ほんのささいなことでこころがざわざわする感覚がある。
布団に入って寝ようとして、ふとちょっとした考えごとをしたときに、大きく飛躍して、そのちょっとした考えごとは頭を抱える問題になってしまい、こころのなかで何かが爆発しそうな感じがする。
自分のこころはどうなったんだろうと不安になって、身体を丸くして、胎児のかっこうになってみる。すると、少し安心できる気がする。
心はどこにあるのかと、わたしは度々考えるが、この心のざわめきは、心臓の方から始まっている気がする。
こんなざわざわする感覚を感じるのは、わたしだけなんだろうか。こんな話だれかにしても、理解してもらうことは難しいだろう。社会のなかで生きていくなかで、敏感な感受性が足枷となっているとつくづく思い知らされる。
しかし、この心のざわめきにも終わりがある。波のように打ち寄せるが、必ずこのざわめきは、時間が経っていくにつれて潮が引いていくように落ち着いていく。これは願いでもあるが、事実だ。
例えば、夕方5時すぎごろに散歩に出掛けてみる。不安な気持ちを抱えながら歩く。
すると、空のキャンバスに、ピンクと水色が丁寧に色付けされて、少しメルヘンのような、哀愁があるような雰囲気を出していた。
わたしのこんな感受性はきっと、わたしだけのものだ。もちろん、あなたの感受性はあなたにしかない。
それは、理解されない苦しみもあるけど、自分が正面から自然と、そして世界と向き合えている感じがしてうれしくなる。こんなうれしさをずっと大切にしていきたい。
_____心のざわめき_____________________________。