M.E.

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1/13/2025, 4:09:26 PM







景色はそれをみる人や、その人を取り巻いている状況によって、”見え方”が変わると思う。



わたしは、気持ちが鬱いでいるときに、雲一つない青空を見ることが嫌で仕方なかった。

空色の美しさに自分が飲み込まれてしまう気がした。

本当はきれいだと感じる景色のはずなのに。

きれいだと思いたいのに、きれいだと心の底から思えないことが、悔しかった。

青空を見ないようにするために、部屋のカーテンをピシャリと閉め切った。それでも、カーテンの隙間から僅かな光が差してくる。その光の生命力のようなものに嫌悪感を感じると同時に、羨ましい気持ちになった。



わたしは、過去を後悔するときに、未来がどうなっているか知っていれば防げたのではないかも考えることがある。

また、わたしが今不安で仕方ないことは、未来で解決できているのか。確かめるために、未来を知ることができたらいいのにと思うことがある。

このようなときには、わたしに’’未来を予知’’できる能力があったらなと思う。

予言者が、これから未来に何が起こるのか予言したことのなかには、実際に現実となるものがあったとテレビ番組でみた。それからは、科学では証明できない人間の’’未来を予知’’できる能力があるのだと思った。



しかし、“未来を予知することに伴う代償“があるとすれば、自分にこれから起こるうれしいことや悲しいことが全部わかることで、うれしいことも悲しいこともその感情の大きさが小さくなってしまうことではないかと思う。

悲しみを小さくしたいとは思うが、その代わりにうれしいことも小さくなったら、どうだろうか。

何が正解かはないし、それぞれの価値観によって変わってくると思う。

わたしは悲しいことがあったとき、人の優しさををこれまで以上に感じた。このとき、自分は本当に幸せだと心から思えた。

この気持ちは、これから起こることを知っていたら、味わえない気持ちだったと思う。



結局、わたしが予知能力を手に入れることのできる状況に置かれたときに、手に入れようとするのか、それとも拒否するのか、今ははっきりといえない。

しかし、これからなにが起こるかわからない状況のなかで生きていくことを選んだ方が、人生の最期に、いいことも悪いことも大きなパネルに全部並べて、全体を俯瞰してみたときに、「いろいろあったが、わたしは人生においてほんとうにいい景色をみることができた」と思えるのではないか。今は悪いとしか思えないことでも、最期にはいいことと捉えられるようになるのではないか。

この大きなパネルのなかに、目の前の景色があることを想像すると、これまでより少しきれいだと思える気がする。







_________________________まだ見ぬ景色______。

1/12/2025, 5:35:28 PM






わたしは、保育園の卒園式に、大勢の園児や保護者、先生に向けて、「学校の先生になりたい!」とホールいっぱいに響く大きな声で堂々と夢を発表した。

そのときはただ「なりたい」という気持ちだけが存在していた。

夢が叶うのかどうかを考えることすらなかった。

いつからだろう、自分の夢がわからなくなっていた。





保育園のとき、わたしは走るのが速かった。かけっこでは、ゴールテープを切る常連だった。“ただ走ることが幸せ“だった。

しかし、小学校に上がってから、次第にわたしよりも速く走る子が現れるようになった。



そのうち、競争して負けるとなんでもないふりをして態度には出さないが、心の中では悔しいと思ったり、友達に「〇〇ちゃんって足早いよね!」と言われたときには、友達が想像していたより遅かったとき、大したことないと思われるのが怖かった。

わたしは、“ただ走ることが幸せ“だった。しかし、比較をすることや、他人からの評価を気にすることを覚えてから、自分の『プライド』が徐々に形成されていき、”走ることはそんなに好きではない“になった。



この『プライド』のやっかいなところは、自分を信じることができなくなることである。

他人からの評価によって自分が傷つくことを避けるために、興味のあることを挑戦せずに逃げたり、期待されていることに気がついたら「絶対無理だと思う」と言って、”他人より先に自分に期待をしていないこと”を周囲に示すようになった。



また、学校の授業や大人たちから、資本主義社会の現状を学んでいくにつれて、“大きな夢をみること”よりも、“生活に必要なお金を稼ぐために就職すること”が自分のなかで重要視されていったと感じる。



「将来野球選手になりたい!」と目を輝かせて夢を語る子どもに対して、社会は、「君はとっても上手だけど、君より上手な人は世の中にいっぱいいる」、「上手くても一握りの人しかなれない」、「現実を見たほうがいい」という言葉を投げかける。

そしてその子どもは、目の輝きを失い、自らもその社会の一部となって、夢を語る子どもに対して現実を突きつける言葉を放つ。

このような社会を目の当たりにしたわたしは、高校卒業後の進路を考える際に、“自分がやりたいこと”よりも、“自分が金銭的に安定するためにどうすべきか”を重要視した。





わたしを一言で表すと、“優しくて空っぽな人間“になると思う。

周囲の人々は、わたしの性格について、口を揃えて『優しい』と言う。

しかし、一度だけ『ギゼン』だと言われたことがあった。

わたしはこの言葉を言われたとき、言葉の意味がわからなかったが、意味を理解した今は納得している。



わたしは、ものごころついたころから、人に喜んでもらう瞬間がただうれしかった。“人の役に立つこと“がなによりも幸せだった。

しかし、わたしは成長していくにつれて、他人からの評価を気にするようになり、行動の本質が変わった。

“人に喜んでもらうこと”をしたいと思って行動し始めたはずなのに、気がついたら’’他人から嫌われないようにすること“を気にして行動していた。



次第に、”他人から嫌われないための手段“として、人に優しくするようになったのだと振り返る。

こうしているうちに、どの人にも『イイヒト』と思ってもらうために、誰に対しても優しくするよう心がけた。

友人同士が対立したときに、どちらにも『イイヒト』と思ってもらえるように、本心とは異なる、相手が今求めているだろう言葉を投げかけたり、友人同士で友達の悪口を話しているときは、ちょっと自分も共感することもあるがいいすぎではないかと思っても、その空気を乱さないように「そうかな?」ととぼけた感じで返答したりしていた。



今振り返り、”自分の利益となるように、良い行いをする“『偽善者』の特徴に当てはまる部分があったのではないか思った。

また、”どの人にもいい顔をして、嫌われないように振る舞う“『八方美人』が『偽善者』の根底にあったのではないかと思った。

以上がわたしの推論だが、自分が『八方美人』、『偽善者』であるかどうかが“本当の問題”ではない。



この特徴によって、『自分の意見』を人に伝えることができず、次第に『自分の意志』をもつことができなくなる。

また、嫌われることを恐れて、真正面から人と向き合うことができず、その場を取り繕うだけの態度となり、『自分の意見』を押し込んで相手の意見に同調し、『自分の意志』をもつことができなくなる。

これらの特徴は、語る夢さえ心の奥へ隠してしまい、仮にやっとの思いで見つけることができても、口を塞いで伝えられなくしてしまう。これが“本当の問題”である。



この問題に気がついたわたしは、時間がかかっても少しづつ問題を解決していきたいと思った。

『自分の意見』を伝えることによって嫌われることもあるかもしれないし、目上の人に向けて『自分の意見』を伝えることで失礼だと言われることもあるかもしれない。

しかし、人から『イイヒト』と思ってもらえないことよりも、『自分の意志』をもつことができなくなる方が、わたしにとって避けたいことだと思った。



このようにして、『自分の意志』をもつ生き方に切り替えることで、嫌われることやばかにされることがこれまでよりも多くなるかもしれない。

しかし、これまでよりも狭いが深い信頼関係を築き、わたしにとって大切な人たちと真正面から向き合えるようになるのではないかと思う。

『自分の意志』をもつ生き方によって、”わたしの思う本当の意味での優しさ“をみつけることができるのではないかと思う。



書いている途中、”夢“から”人間関係“へと話がずれていったように思ったが、そうではなかった。

わたしが夢を持つことができるのは、“人の役に立ちたい”と想うからであり、夢を持ち、実現するかどうかわからない夢の過程のなかで、人の役に立てるようどのように関わり行動するかが、わたしにとって夢を実現することよりも大切なことだと思った。





「ハリー、自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ。 (ダンブルドア先生)」





思い描いた『夢』が必ず実現するわけではない。

しかし、『偽善者』や『八方美人』ではなく、人から嫌われることもあるが、”わたしの思う本当の意味での優しさ“によって、“人の役に立ちたい”という、『想い』を大切にしていける生き方ができるように。



これが、わたしが保育園のときに発表した”夢のつづき“である。









_______あの夢のつづきを___________________。










1/11/2025, 6:07:26 PM







これまでにたくさんの『心』が『あたたかい』と感じた瞬間があった。

まだ寒い冬の日に、春の暖かい風が吹き、春のにおいが季節の移り変わりを教えてくれる瞬間。

小さい頃、わたしがなかなか寝つけないときに、祖母がおんぶして子守唄をきかせてくれた瞬間。

小さい頃、雪がたくさん降った日に、かまくらをつくって、そのなかで弟と一緒にラーメンを食べた瞬間。

これまで『心』が『あたたかい』と感じた瞬間に共通していたことは、極寒の極地で雪が吹雪いているなかに建つ小さな小屋で、チリチリと音を鳴らす暖炉のなかの炎のように、悲しいことや辛いことがあったときに、ふと思い出し、『心』をうすい橙色のように、ほんのりあたたかくしてくれるものだということである。



『心』は結局どこにあるのか。わたしはたまに考える。

『心』をイラストで表現する際、心臓の位置にハートを描くため、小さい頃は心臓が『心』だと信じていた。しかし、成長していくにつれて感情も思考も『脳』で発生していることがわかってきた。

幽体離脱をした方や、死を彷徨ったことがある方に、共通した経験談の一つに、「目の前に自分がいるのをみている」という状況がある。

わたしは、『心臓』も『脳』も目の前の自分がもっているため、この状況はありえないことだと思っていた。

しかし、少しずつこの状況を納得できるようになってきた。

この理由として、「魂の重さは21g」と発表された事実がある。

わたしはこの実験の詳細についてわからないため、根拠のある説明はできない。

しかし、「魂が存在すること」はびっくりするくらいすっと納得した。納得というより、思い出したという表現が正しいかもしれない。わたしは「魂が存在すること」を今まで忘れていたのである。



わたしは『心』は『魂』だと思う。感情は『脳』で発生するけれど、それを感じ取るのは『魂』なのではないか。感じ取ることこそが、『心』なのではないかと。

『あたたかい』気持ちは、『魂』があるから感じ取ることができるが、それは五感を感じ取ることができる『身体』があるからである。

『魂』だけでは、『あたたかい』を感じ取ることはできないのである。



『あたたかい』気持ちを感じ取れるのは、『魂』と『身体』が一つになっているからだと気がついた。

このことに気がつくと、『わたし』という存在がすこしすきになれた。

また『あたたかい』と感じるために、誰かに『あたたかい』を感じ取ってもらうために、生きたいと強く思った。





________あたたかいね__________________。
















1/10/2025, 4:46:54 PM






『過去』、『今』、『未来』について、わたしはときどき考える。

『今』という延長線上に『未来』がある。

『未来』が訪れると、あっという間に『今』は『過去』になる。



わたしは、『過去』で心に傷を抱えた。

心の傷は年月が経つにつれて塞がるが、傷の中には塞がらないものや、一度塞がってもまた開くものもある。

傷が塞がらないということは、自分の潜在意識に常に存在すると言うことである。

潜在意識に存在する傷は、普段は静かに眠っているが、ある出来事をきっかけに、顕在意識にまで響くような警鐘を鳴らす。それは顕在意識に大きな影響をもたらす。



『過去』は変えられないから、考えても無駄だときいたことがある。

私はこの言葉を信じて、『過去』の傷口をみつけても、それを見てみぬふりをした。そうやって今まで自分をごまかして生きてきた。

しかし、大きな環境の変化に順応できず、過去に抱えた心の傷が原因のストレスを抱えたままひたすらがんばろうとした結果、顕在意識に警鐘が鳴った。わたしはこれまでの生活を送ることができなくなった。 



それから、わたしはこれまでの心の傷への向き合い方は間違っていたのではないかと考えた。

『過去』に向き合い、『未来』に希望をもって『今』を生きるために『過去』、『今』、『未来』を現実世界に置き換えて考えた。

わたしは『過去』は、『今』を積み重ねてきた足跡であると考える。

『過去』に、なんであのときこうしたんだろうと後悔するときもある。

しかし、『過去』は、どんな状況の中であっても、自分が確かに生きてきた、確かな足跡だと思う。

降り積もった雪の上を歩いたときに、確かにそこには自分の足跡がある。

わたしは日々のほとんどを、コンクリートの道を歩いているため、自分の足跡を確認することはできない。しかし、雪の上を歩いたときにできる足跡を想像することはできる。

この足跡はうっかり糞を踏んだときにできたものもあれば、コンクリートに咲く花を避けるようにしてできたものもあるように、足跡には、自分にとっていいこととわるいことがある。

足跡ができたときに抱いた想いが大きいものの中に、潜在意識で傷となるものがある。

潜在意識の一部となった強い傷は、決して完治することはできないため、癒すことを意識する必要がある。



わたしは、傷を癒すためには、『過去』を振り返り、向き合うことが必要と考えた。

『今』を生きることが大切だとよくきく。

わたしは『過去』を後悔せず、『未来』に希望をもって、『今』を生きようと意識している。

しかし、意識していても、ときどき『過去』への後悔や『未来』への不安が、わたしをがんじがらめにしているように感じる。

がんじがらめになったら、『今』から『未来』へ急に時間が進んで『今』を生きている実感がないときがある。

このようなときは、降り積もった雪の道を歩く自分の様子を思い浮かべて、目にはみえないけれど、そこには確かに『足跡(過去)』があったこと、また、これから歩く道にも『足跡(過去)』ができることを想像したい。

そして、目の前には霧がかかっていて先がみえないが『道(未来)』が確かにある。先がわからないことに不安はあるが、不安に勝る希望を持って歩みを進めたら、いつの間にか霧から抜けて、地平線まで見渡せる場所に必ず辿り着くことができることを想像したい。

そして『今』を足の底で踏み締めている感覚や、風が頬を撫でるように通り過ぎていく感覚、雨がもたらしてくれた七色に輝く虹、頭上を猛スピードで旋回している燕の羽の音を想像して、『今』確かにわたしは生きているという感覚を持ち続けていきたい。

『過去』と向き合い、『今』この瞬間を生きて、輝く『未来』を想像すること。

それが、わたしの未来への鍵である。





____未来への鍵_________________。