M.E.

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わたしは、保育園の卒園式に、大勢の園児や保護者、先生に向けて、「学校の先生になりたい!」とホールいっぱいに響く大きな声で堂々と夢を発表した。

そのときはただ「なりたい」という気持ちだけが存在していた。

夢が叶うのかどうかを考えることすらなかった。

いつからだろう、自分の夢がわからなくなっていた。





保育園のとき、わたしは走るのが速かった。かけっこでは、ゴールテープを切る常連だった。“ただ走ることが幸せ“だった。

しかし、小学校に上がってから、次第にわたしよりも速く走る子が現れるようになった。



そのうち、競争して負けるとなんでもないふりをして態度には出さないが、心の中では悔しいと思ったり、友達に「〇〇ちゃんって足早いよね!」と言われたときには、友達が想像していたより遅かったとき、大したことないと思われるのが怖かった。

わたしは、“ただ走ることが幸せ“だった。しかし、比較をすることや、他人からの評価を気にすることを覚えてから、自分の『プライド』が徐々に形成されていき、”走ることはそんなに好きではない“になった。



この『プライド』のやっかいなところは、自分を信じることができなくなることである。

他人からの評価によって自分が傷つくことを避けるために、興味のあることを挑戦せずに逃げたり、期待されていることに気がついたら「絶対無理だと思う」と言って、”他人より先に自分に期待をしていないこと”を周囲に示すようになった。



また、学校の授業や大人たちから、資本主義社会の現状を学んでいくにつれて、“大きな夢をみること”よりも、“生活に必要なお金を稼ぐために就職すること”が自分のなかで重要視されていったと感じる。



「将来野球選手になりたい!」と目を輝かせて夢を語る子どもに対して、社会は、「君はとっても上手だけど、君より上手な人は世の中にいっぱいいる」、「上手くても一握りの人しかなれない」、「現実を見たほうがいい」という言葉を投げかける。

そしてその子どもは、目の輝きを失い、自らもその社会の一部となって、夢を語る子どもに対して現実を突きつける言葉を放つ。

このような社会を目の当たりにしたわたしは、高校卒業後の進路を考える際に、“自分がやりたいこと”よりも、“自分が金銭的に安定するためにどうすべきか”を重要視した。





わたしを一言で表すと、“優しくて空っぽな人間“になると思う。

周囲の人々は、わたしの性格について、口を揃えて『優しい』と言う。

しかし、一度だけ『ギゼン』だと言われたことがあった。

わたしはこの言葉を言われたとき、言葉の意味がわからなかったが、意味を理解した今は納得している。



わたしは、ものごころついたころから、人に喜んでもらう瞬間がただうれしかった。“人の役に立つこと“がなによりも幸せだった。

しかし、わたしは成長していくにつれて、他人からの評価を気にするようになり、行動の本質が変わった。

“人に喜んでもらうこと”をしたいと思って行動し始めたはずなのに、気がついたら’’他人から嫌われないようにすること“を気にして行動していた。



次第に、”他人から嫌われないための手段“として、人に優しくするようになったのだと振り返る。

こうしているうちに、どの人にも『イイヒト』と思ってもらうために、誰に対しても優しくするよう心がけた。

友人同士が対立したときに、どちらにも『イイヒト』と思ってもらえるように、本心とは異なる、相手が今求めているだろう言葉を投げかけたり、友人同士で友達の悪口を話しているときは、ちょっと自分も共感することもあるがいいすぎではないかと思っても、その空気を乱さないように「そうかな?」ととぼけた感じで返答したりしていた。



今振り返り、”自分の利益となるように、良い行いをする“『偽善者』の特徴に当てはまる部分があったのではないか思った。

また、”どの人にもいい顔をして、嫌われないように振る舞う“『八方美人』が『偽善者』の根底にあったのではないかと思った。

以上がわたしの推論だが、自分が『八方美人』、『偽善者』であるかどうかが“本当の問題”ではない。



この特徴によって、『自分の意見』を人に伝えることができず、次第に『自分の意志』をもつことができなくなる。

また、嫌われることを恐れて、真正面から人と向き合うことができず、その場を取り繕うだけの態度となり、『自分の意見』を押し込んで相手の意見に同調し、『自分の意志』をもつことができなくなる。

これらの特徴は、語る夢さえ心の奥へ隠してしまい、仮にやっとの思いで見つけることができても、口を塞いで伝えられなくしてしまう。これが“本当の問題”である。



この問題に気がついたわたしは、時間がかかっても少しづつ問題を解決していきたいと思った。

『自分の意見』を伝えることによって嫌われることもあるかもしれないし、目上の人に向けて『自分の意見』を伝えることで失礼だと言われることもあるかもしれない。

しかし、人から『イイヒト』と思ってもらえないことよりも、『自分の意志』をもつことができなくなる方が、わたしにとって避けたいことだと思った。



このようにして、『自分の意志』をもつ生き方に切り替えることで、嫌われることやばかにされることがこれまでよりも多くなるかもしれない。

しかし、これまでよりも狭いが深い信頼関係を築き、わたしにとって大切な人たちと真正面から向き合えるようになるのではないかと思う。

『自分の意志』をもつ生き方によって、”わたしの思う本当の意味での優しさ“をみつけることができるのではないかと思う。



書いている途中、”夢“から”人間関係“へと話がずれていったように思ったが、そうではなかった。

わたしが夢を持つことができるのは、“人の役に立ちたい”と想うからであり、夢を持ち、実現するかどうかわからない夢の過程のなかで、人の役に立てるようどのように関わり行動するかが、わたしにとって夢を実現することよりも大切なことだと思った。





「ハリー、自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ。 (ダンブルドア先生)」





思い描いた『夢』が必ず実現するわけではない。

しかし、『偽善者』や『八方美人』ではなく、人から嫌われることもあるが、”わたしの思う本当の意味での優しさ“によって、“人の役に立ちたい”という、『想い』を大切にしていける生き方ができるように。



これが、わたしが保育園のときに発表した”夢のつづき“である。









_______あの夢のつづきを___________________。










1/12/2025, 5:35:28 PM