「かわいいと言われても素直に喜べなくなる時期がいつかきっと来てしまう。だったらいっその事、此方から卒業してみませんか?」と、鏡の向こう側の私に言われた気がして、私は前髪を伸ばし始めた。
自然の摂理に逆らう事は残念ながら叶わない。
私はその真理をテレビ画面の美魔女と呼ばれる人達の下からの強烈なる光量から学んでいる。だから割とすんなりとかわいいを捨て去ることが出来た。
他人事では無い。
光量の足音は着実に聞こえだしている。
4Kなんて滅んでしまえ!
見えない方が良いって事も、世の中にはあるんだよ。
——— cute! ———
毎年、この時期になると会社全体が摂生モードに突入する。
ご名答。
あなたの考察の通り健康診断の季節だ。
福利厚生が手厚く、とてもありがたい反面、ずっと残っちまうんだよ…記録って奴がさ。
しかも、数年前から羅列して見せられるとか地獄だろ。
あべこべだよな。
健康診断が近付くにつれ、皆が一様に元気を無くしていくんだ。
一過性の摂生で一年の不摂生が帳消しになるとは到底思えないんだけど、それでも最後の最後まで見苦しく足掻く姿は、なんと滑稽で可愛らしいことか…
さて…もう一足掻きいっときますか。
次はウォーキング1時間だな。
——— 記録 ———
マンネリ化した日常を打破すべく、私は文明の利器スマホをかなぐり捨てて冒険の旅に出た。
先ず襲ってきたキャッシュレス決済の洗礼を華麗な身のこなしにて躱す。ジャラつく小銭をポケットに忍ばせて来た甲斐あって難なくクリアした。
次に、公共交通機関利用中の暇な時間が押し寄せてきた。ただただひたすらに妄想することでやり過ごした。逞しい想像力は今尚健在であった。VHS世代を舐めるな。
会社に着くと部下達がプリントアウトしたデータやら資料やら企画書やら始末書やらを一斉に提出してきた。
山のように積み上がった書類達が眼前にそびえ立っている。
と同時に内線・外線が鳴り止まない。
ここはメールやLINEなど無いアナログの世界。
しょうがない。
そんな世界とは言え、常に動いている。
部下、来客が代わる代わる訪れる。
どれもこれも取るに足らない内容だが、仕方がない。
内線・外線はキャパオーバーのパンク状態で繋がらないらしい。
その間にも書類の山はその規模を拡大し、手が届かなくなるほど険しさを増している。そろそろ脚立が必要だ。
内線9番が点灯した。
つまり上司からの呼び出しだ。
最優先事項だ。
積み上がった書類の山が連山を形成しだしているのを尻目に、上司の元へと駆けつけた。
もちろん叱責だ。
各所からの私へのクレームが鳴り止まないらしい…
正直、こんな無駄な時間を過ごす暇など無い。
こんなことをしている間にも、書類連山はその規模をますます拡大し、山脈を形成しているに違いないからだ。
早く、一刻も早く私を解放してくれ!
ネチネチと説教を喰らうこと約15分。
やっと席に戻ることが出来た。
しかしながら最早、席などそこにはなく、雪崩を起こしそうなほどの白い巨大山脈が警告音を発しながら私を出迎えた。
そこで目が覚めた。
スマホがアラーム音を発していた。
私はそっとスマホを抱きしめた。
——— さあ冒険だ ———
いつにも増して部屋は綺麗に整頓されている。
高台にある5階建てのマンションの5階。
開け広げられた窓から風が吹き抜ける。
3年以上通いつめた部屋だが、今日の風はどこか冷たい。
テーブルの真ん中に一輪の花、その奥の対面に座る彼女。
無言のまま私を見つめている。
この香り…「ゼラニウム?」
彼女は私を見据えたままコクリと頷いた。
白のゼラニウム…か
私はスペアキーを取り出しテーブルに置くと、無言のまま玄関を後にした。
——— 一輪の花 ———
今宵も駆けてく。
ベッドに横たわりながらスマホをポチポチ。
怠惰なあたしの命令で、電波は今宵も夜空を駆ける。
早速、最短で明日の17時との報を持って帰ってきた。
愛いやつめ。
褒めて遣わす。
夜空を飛び交う無数の電波。
キミ達が見えなくって本当に良かった。
酷使し過ぎて、され過ぎて、直視できない。
ホントいつもありがとう。
お陰様で、あたしの前髪と眉毛は来週からも保たれます。
——— 夜空を駆ける ———