『眠りにつく前に』
明日遠く離れた国で戦争が起こるという。きょうび珍しいやり方である宣戦布告で日時を指定して正々堂々と攻め入ると突きつけた国は対する国が進軍を受けて立つと返答を寄越したことでそんなことになってしまった。民間人が巻き込まれぬようにという配慮によって市街を避けた場所で行われる戦いには物味遊山の野次馬がすでに大勢押しかけているらしい。
明日目覚めたら戦争は始まっている。正々堂々と戦う兵士もどんな手を使ってくるかわからない相手もそれに巻き込まれる野次馬も大勢死ぬに違いない。
眠りにつく前にどこにあるかもわからない国に向かって祈る。
「馬鹿らしい戦争がすぐさまに終わりますように」
祈りを聞き届けてくれる誰かがいることをも願って、私は眠りについた。
『永遠に』
生物の血を吸って生き長らえるという魔物がかつて存在していた。血で腹を満たし続ける限りは永遠に老いることもなく命の尽きることもないそのひとは世に混ざり人と変わらぬ生活を送っていた。
私が給仕として働くようになる以前からそのひとは店に毎日コーヒーを求めに来ていた。店主の話によればある日に豆を焙煎していたときにふらりと立ち寄った客だったのがそのうち毎日足繁く来てくれる常連客になったという。
「しかしあのひと年がわかんねぇんだよな。こちとら頭も寂しくなってきたっていうのに会ったときからほとんど変わってねぇ」
店主は禿げ上がった頭をぺしりと叩いて笑った。
軽いあいさつを交わす程度の給仕と客は私のやや強引な歩み寄りによって友人以上にはなれていたと思う。できることなら恋人にまでなりたいと思っていたけれどそのひとはあまり踏み込んできてはくれなかった。
思い詰めた私はそのひとが店を出たあとは住処に戻るだろうと踏んで店を放ってあとをつけた。そして、そのひとが女の人を伴って路地裏へ入っていくのを目撃することとなってしまった。抱擁を交わすふたりを絶望的な気持ちで覗き見ることしかできない私の目に、そのひとの犬歯が牙のように伸びて女の人の首元へ深く刺し込まれるのが映った。なぜか安堵の表情を浮かべた女の人は力なく倒れて動かなくなり、やがて灰となって消えてしまった。遅れてやってきた理解が声を上げさせ、私に気づいた彼は驚きと絶望の浮かんだ目で見つめ、そして歩み寄ってきた。
「これでも、私を恋人にしたいと思うか?」
すぐには答えられなかった私に目を伏せ、踵を返したその人の背に私は言う。
「でも、また店には来てください!」
振り返った彼に私は続ける。
「あなたが何者であっても、店に来てくれたら私はきっと嬉しいです」
店を放って出たことを店主に叱られた翌日。そのひとは店へとやってきた。
「俺に、コーヒーの淹れ方を教えてほしい」
常連客は突然に店主の弟子となり、私と彼は同じ店に勤める同僚として一緒に働くこととなった。
「もう血は吸わないから、安心してくれ」
「じゃ、じゃあ、恋人にしてください!」
きょとんとしたあとに大笑いをしたそのひとは、涙目になりながらも頷いてくれた。
自分がどういった魔物であったかを、私は彼の口から教えてもらった。かつては大勢いた同胞たちはハンターと呼ばれる人々によって駆逐され、いまや彼が最後のひとりであること。人が下等であると見做す同胞たちの考えに違和感を持ち、反発していたこと。血をやむなく吸うときは安楽死を望む人を探し出していたこと。
「どうして、コーヒーの淹れ方を習おうと思ったんですか?」
「一言では難しいな……」
私に血を吸う現場を見られたとき、生活のすべてを捨てる覚悟をしていた彼は、私に店に来てと言われてひどく安心したのだと言った。
「俺はあの店のコーヒーと、共にあった平穏な生活を無くしてはもう生きられないのだと悟ったんだ」
そうして彼は人に寄り添うことを決めた。人と共にあるために人と深く関わろうと決めて店主に弟子入りをした。その考えに気づいたのは私がいたからだと、愛することを決めてくれた。
「私との子は望めないが、それでもいいだろうか」
「もちろんです……!」
彼のコーヒーの腕はめきめきと上達し、店主と並び立つほどになった。これで休みがとれると喜んだ店主は週に1、2日店を任せていたのを3日にし、4日にしてやがては彼に店を継がせてしまった。
夫婦で切り盛りしていた店は半世紀の節目に彼の弟子に譲り渡され、老いた彼と私は外へと出てこれまで勤め続けた店を眺めた。焙煎された豆の香りがあたりに漂い、においにつられた常連客や見知らぬ人、人ではないかもしれないひとが店へふらりと立ち寄っていく。永遠に老いず、命の尽きぬ可能性のあったひとは次々と訪れる客たちを懐かしそうに見つめていた。
「行きましょうか」
「ああ」
老いた手に老いた手が重なってゆっくりと歩き始める。コーヒーの香りがこの場所に何年も何十年も漂って、いつか永遠になればいいのにと私はひっそりとそんなことを思っていた。
『理想郷』(Bloodborne)
街のあちこちに火の手が上がっている。燃やされているのは磔にされたまだまともなはずの人たち。耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げ続ける人がほんとうに病の根源なのか、未然に病を防ぐためだとして火をくべる人たちこそが狂っているのか、誰にも判別はできていなかった。
家に閉じこもって病のことを考え続けていてはこちらの気も狂ってしまう。意を決してドアを開け、人々に見つからぬように路地を彷徨い歩いて辿り着いたのは街の外れの診療所だった。
「こんな夜によく来てくれました。外は恐ろしかったでしょう」
迎えてくれた女医のあたたかな言葉に涙まで出てくる。殺伐とした街のことを思うと、ここは何にも悩まされずに安心できる理想郷のような場所だと思った。
「ここには大勢の人が頼りにして来ています。もう心配はいりませんよ」
言って診療所の奥へと通された時に違和感を持った。大勢の人がいるはずだが人の声がまったく聞こえず、耳慣れない奇妙な音が断続的に続いているばかりだった。振り返って他の皆はどこにいるのかを女医に尋ねようとした。その前に、私の認知がぐにゃりと歪んだ。手に注射器を持った女医の姿を見た気がするが、首元に痛みを感じたことも、手指の感覚も、ここがどこかも、なにもかもわからなくなっていく。
「ほら。もう心配いりません」
聞き覚えのある声だと思ったが、私がいったい何なのかをもう思い出すことはできな
『懐かしく思うこと』
いつもの遊び場である落ち葉の降る森に辿り着くと見知らぬこどもがひとりぽつりと佇んでいた。ここに来るのは私ぐらいのものだから嬉しくなった私はその子に駆け寄った。
「あなた、角があるのね?どうやって付けたの?」
頭に角がある子は突然話しかけられて少し驚いた様子を見せたけれど、答えてくれた。
「……生まれつきだ」
「すごい!かっこいい!」
一目でその子を気に入った私は森のいろんなところを案内した。毎年きれいな色のキノコが生えるところ。キツネの巣穴やクマの住処。シカが落とした角を集めたところ。
「私にも角が付けられたらお揃いになるのに」
言うとその子はなぜかもじもじとして、私に身につけていた指輪をくれた。ぴかぴかの土台にキラキラした石が嵌まったきれいな指輪だった。
「俺はもう行かないといけない。でも、また来てやる。これはその約束のために渡す」
「また遊べるのね!ありがとう!」
眩しいものを見るような目で私を見たその子とは日暮れに別れてそれっきり。けれど指輪はあの時から変わらずきれいなままにしわしわの私の指に光っている。
いつかの約束を懐かしく思いながらしばらくぶりに森へと入ると、落ち葉の降る森にはひとりの人がぽつりと佇んでいた。
「すまないな。遅くなってしまった」
私よりも年若く見えるその人には頭に角が生えていた。長い時を経て約束が守られたことに胸があたたかくなる。
「また会えてうれしいわ」
あのときのように駆け寄る気持ちでゆっくりと歩み寄ると、彼は微笑んで手を差し出した。その手に指輪の嵌まった手を取ればこの世界とはそれきりになると、なぜかわかっていた。私は落ち葉の降る光景をひとときじっと見つめながら、決意が固まっていくのを感じ取っていた。
『もう一つの物語』
右と左どちらへ行くか。酒場で出会った戦士と魔法使いどちらを仲間にするか。高貴な姫君と共に旅してきた仲間どちらを花嫁に迎えるか。人生には選択が付き纏い続けている。
「わしの配下に降ればお前の命だけは助けてやろう」
世界を闇に陥れた魔王は圧倒的な力で討伐隊の仲間を屠り、ひとり残した私に向かってそんな事を言う。諫言だ、と断じて歯向かった事はこれまでに数知れない。その度に私もみなと同じ運命を辿らされ、慈悲深き女神とやらに息を吹き返させられるのを何度も経験してきた。旅の仲間たちは死しても死ねぬ役目を与えられることに嫌気が差して討伐隊を辞していった。最初から残っているのは私と妻だけ。
「またふたりだけになっちゃったね」
「……あのとき姫さまと結婚していればよかった」
笑いかけた妻はその一言で表情を凍らせ、そして去っていった。
ひとりきりで魔王の城へと赴く。道中に魔王の手下が何度も立ちはだかったが、羽虫のごとくに煩わしいだけだった。それほどまでに私は強いのに、どうして魔王を倒すことが出来なかったのか。胸に決意を秘めて先へ先へと進む。
旅の伴を連れずに現れた私に魔王は愉快そうに笑いかける。
「わしの配下に降りに来たのか?」
「そうだ」
その返答に一層笑みを深めた魔王が手招きをした。私は魔王の胸に抱かれる。
魔王を倒す物語は私の物語ではなかった。そうとしか考えられない状況に最初から提示されていた選択を受け入れる。これまで描いてきた魔王を倒した後の世界のことが一抹思い出されたが、闇に身体を融かす感覚の心地よさににすべて飲み込まれていった。
私の前にかつての私のような目の輝きを宿した者が立ちはだかる。あれが魔王を倒す物語を紡ぐ者ならば、羨望とも嫉妬とも言える感情を掻き立てられるのも納得がいく。私の成り得なかった存在は私を容易く倒し、魔王にも打ち勝つことができるのか。見届けるために全力を賭すと決めて柄を握った。