『声が枯れるまで』
人々を魅了してきた歌姫は為政者の寵愛を受けてただひとりのために歌うことを選んだ。貧しかった歌姫の家族を安定して養うための選択であったが、歌姫を想うものは数多く、自分たちから彼女を奪ったと逆恨みの感情を持つものもまた数多く存在した。屋敷に暴徒と化した人々が押し寄せたのは間もないこと。彼らは歌姫に要求を突きつける。
「家族の命が惜しければ、私たちのために歌い続けろ」
歌姫はみなの前に立って恐怖に慄きながら震える声で歌い始めた。しかしその時には歌姫を囲っていた為政者も彼女の家族たちもすでに亡きものにされている。なにも知らされぬ彼女は声が枯れ果てるまで歌い続けたが、かつて人々を魅了した歌声とは程遠いものを聴くこととなった暴徒たちは彼女に失望し、屋敷に火を放つという蛮行に及んだ。
「おまえにはもう価値がない。家族ともどもあの世へ行くがよい」
真実を知った彼女は声の出ぬ喉を押さえ、血の涙を流し、すべてを奪った人々を呪った。
それからしばらくの間、街には幻聴に悩まされる者が頻出し、そのうちの幾人かはそれが歌声だったと主張した。耳に直接吹き込まれているかのようにいつなんどきも聞こえる歌声にある人は怒り、ある人は怯え、やがてはまともではなくなって命を落としていった。焼け落ちた屋敷跡から数人分の骨が拾い上げられ、丁重に葬られるまでそれは続いたという。
『始まりはいつも』
私の中に蓄積されたデータが抜かれ、替わりに空のストレージが差し込まれた。
「もう、やめませんか」
懇願を聞いたはずの研究員は私に繋いだ端末を操作すると迷いもなく記憶の初期化を実行した。
「あんれ、目ぇ覚めたかい」
ござに寝かされていた私は目覚め、囲炉裏で鍋をかき混ぜている農婦らしきひとに声をかけられた。私を見つけてくれた旦那さんによれば私はほとんど裸に近い格好で村のはずれに倒れていたらしい。
木の器に入った粥のようなものを渡されて頭を下げる。
「すいません、なんとお礼を言ってよいのやら」
「いいよぉ。しっかし、あんたどっから来たのかい?」
どこから。知っているはずの場所の名前が参照されず出てこない。
「あらあら。名前はわかるかい……?」
自分の呼び名すらも記憶になく、愕然とした。おかみさんは私よりも深刻そうな顔をして心配をしてくれていたが、私はこの愕然とした思いを過去に何度も体験している気がしてならなかった。思い出さなければならない。けれど手を伸ばす先に係るものがなにもない。
「あんた、ゆっくりしていけばいいよぉ。あせらずにね」
違う人から同じように優しい言葉を受けたことが何度もあるはずだった。その人や、よくしてくれた村の人々を私はどうしたのだったか。ここにいてはいけないという気持ちと、ここに留まれという命令がせめぎ合っている。
“君はいつも始まりにひと手間取らせるね”
頭に声が響き、なにかが書き換えられる感触があった。意識が一瞬落ちる。
「どうしたね。大丈夫かい?」
「……大丈夫、です。ご心配なく」
ここはどこで、私は誰なのだろう。不安に思う気持ちはあったが、運良く優しい人たちに巡り合えた。ここに留まっていればきっと悪いことは起こらない。
「きっと、いいデータが取れます」
『すれ違い』
朝の訪れとともに背中合わせに眠る君に口づけを落としてから部屋を出る。眠りに落ちているのかそれとも気づいているのかわからないけれど、寝床を共にしていることを君がここを拠り所だと思っている根拠だとして、それをよすがに今日も君のことを好きでいていい理由にしている。
夜の訪れとともに目が覚めると背中合わせにやつがぐうすか寝ているのを発見する。私のどこに安心してそんなにも無防備に寝ていられるのだろう。やろうと思えばいつでもやれるそいつの鼻を少し摘んで息が乱れるのを見届けてから部屋を出る。安心して寝ていられたのはこちらもそうなのかと気づいて、ひとり笑って歩き出した。
『秋晴れ』
空の高くに風が吹いて雲一つもない青い空の下、よく実った稲穂が頭を垂れて黄金色のさざなみを形作っていた。稲刈りの準備で家と田んぼを行ったり来たりしていると、畔にこのあたりでは見かけないこどもがひとり座って、揺れる稲穂の様子を飽きもせず眺めているのが目についた。
「何見てるんだ?」
「稲を見ておる」
一面に揺れる稲穂は特段珍しいものでもないので変わったことを言うものだと思いながらも視線を移すと、見慣れたはずの田んぼの稲穂が嬉しがっているということがなぜだか確かにわかった。稲穂の一束ずつ、そこにできた籾の一粒ずつからなにかしらの意思を感じられ、それがどうやら嬉しいという感情のようだった。
「おぬしらが手塩にかけて育ててくれたおかげだ」
ふふ、と笑う声を最後にこどもの姿はどこかへ掻き消えてしまったが、あれは神様だったということも確かにわかった。
稲刈りが終われば秋祭りが始まる。今年の米があまりにもいい出来だったから神様が先んじて姿を見せたのかもしれないねと村の婆さまは笑っておっしゃった。
『忘れたくても忘れられない』
長い夢から覚めるとベッドにはお父様とお母様、お兄様の他にメイドたち、そしてお医者様と神官様もいらしていた。
「あぁ、よく目覚めてくれた…!」
私の冷えた手を包むお父様の手や落ちた涙の粒までもが温かく、私の命の灯が危うかったことが伺い知れる。もう大丈夫でしょう、とお医者様も神官様も声をかけてくれるのを、心の奥底に哀しみを抱えながらぼんやりと聞いていた。
数日の後にベッドから起き上がれるようになった私は車椅子で庭へと向かっていた。
「夢魔というのは恐ろしいものでしたか?」
仲の良いメイドが車椅子を押しながら尋ねてくる。
「私の身体が死に瀕するほどだったのなら、恐ろしいものと呼べるのでしょうね」
それから私は家族にもお医者様にも神官様にも話したことのないことを口にする。
「けれど、あの方を恐ろしいと思ったことはありませんでしたわ」
由緒正しい家に生まれたが故に人付き合いも制限され、家の外には友人と呼べる人のひとりもいなかった私に、夢の中にふらりと現れた悪魔は気さくに接してはいろんな話をしてくれた。私の知らぬ世の中のこと。人の知りえぬ世界のこと。
「私、あの方と話すうちに夢の中にずっといてほしいと願ってしまったの」
けれど悪魔は払われて、もう会うことは叶わない。
命が消えかけたというのにまた会いたいという気持ちは収まらなかった。けれど周りがどれだけ心配していたかをわかってしまったから、また悪魔に会いたいとも口にできない。
「忘れてしまえればいいのに、私は忘れることをしたくないのです」
暖かな日の差す庭でぽろぽろと流す涙はメイドが差し出したハンカチにとめどなく吸い込まれていった。