『秋晴れ』
空の高くに風が吹いて雲一つもない青い空の下、よく実った稲穂が頭を垂れて黄金色のさざなみを形作っていた。稲刈りの準備で家と田んぼを行ったり来たりしていると、畔にこのあたりでは見かけないこどもがひとり座って、揺れる稲穂の様子を飽きもせず眺めているのが目についた。
「何見てるんだ?」
「稲を見ておる」
一面に揺れる稲穂は特段珍しいものでもないので変わったことを言うものだと思いながらも視線を移すと、見慣れたはずの田んぼの稲穂が嬉しがっているということがなぜだか確かにわかった。稲穂の一束ずつ、そこにできた籾の一粒ずつからなにかしらの意思を感じられ、それがどうやら嬉しいという感情のようだった。
「おぬしらが手塩にかけて育ててくれたおかげだ」
ふふ、と笑う声を最後にこどもの姿はどこかへ掻き消えてしまったが、あれは神様だったということも確かにわかった。
稲刈りが終われば秋祭りが始まる。今年の米があまりにもいい出来だったから神様が先んじて姿を見せたのかもしれないねと村の婆さまは笑っておっしゃった。
『忘れたくても忘れられない』
長い夢から覚めるとベッドにはお父様とお母様、お兄様の他にメイドたち、そしてお医者様と神官様もいらしていた。
「あぁ、よく目覚めてくれた…!」
私の冷えた手を包むお父様の手や落ちた涙の粒までもが温かく、私の命の灯が危うかったことが伺い知れる。もう大丈夫でしょう、とお医者様も神官様も声をかけてくれるのを、心の奥底に哀しみを抱えながらぼんやりと聞いていた。
数日の後にベッドから起き上がれるようになった私は車椅子で庭へと向かっていた。
「夢魔というのは恐ろしいものでしたか?」
仲の良いメイドが車椅子を押しながら尋ねてくる。
「私の身体が死に瀕するほどだったのなら、恐ろしいものと呼べるのでしょうね」
それから私は家族にもお医者様にも神官様にも話したことのないことを口にする。
「けれど、あの方を恐ろしいと思ったことはありませんでしたわ」
由緒正しい家に生まれたが故に人付き合いも制限され、家の外には友人と呼べる人のひとりもいなかった私に、夢の中にふらりと現れた悪魔は気さくに接してはいろんな話をしてくれた。私の知らぬ世の中のこと。人の知りえぬ世界のこと。
「私、あの方と話すうちに夢の中にずっといてほしいと願ってしまったの」
けれど悪魔は払われて、もう会うことは叶わない。
命が消えかけたというのにまた会いたいという気持ちは収まらなかった。けれど周りがどれだけ心配していたかをわかってしまったから、また悪魔に会いたいとも口にできない。
「忘れてしまえればいいのに、私は忘れることをしたくないのです」
暖かな日の差す庭でぽろぽろと流す涙はメイドが差し出したハンカチにとめどなく吸い込まれていった。
『やわらかな光』
更けゆく夜の空の高くに月が昇っている。眠っていたネコがぱちりと目を覚まし、外へ出せと鳴くので玄関の扉を開けたが、彼はこちらを振り向いて動こうとしない。お前も来いとの無言のご要望にお応えして月夜の散歩に出向くことにした。
銀色に光るススキの穂が揺れているのや、川面や屋根瓦に跳ね返る月の明るさを眺めているうちに先を歩くネコの姿が大きくなっていく。ツヤツヤとした自慢の毛並みは月の光に照らされて貝殻のような虹色に輝いていた。
「いい月夜だな」
「ほんとうに」
のっしのっしと歩くネコに並んで暖を取らせてもらいながらの散歩は続く。秋の夜には柔らかな光が満たされていた。
『鋭い眼差し』
青い眼には悪魔の力が宿ると信じられている国で奴隷商人が青い眼をした女を売りに出していた。こどもたちは怖いもの見たさに檻を覗いては逃げ、大人たちは気味悪そうに視線を向けては声を潜めて遠ざかっていった。言葉がわからないながらも悪意や嘲りを含んだ視線や言葉を浴びて、青い眼の女は次第に険を含んだ目つきになっていった。
檻から外を鋭く見つめる女の視線には何の力もないはずだったが、悪魔の力が宿ると信じられている国では何かが宿り、力を持った。檻の中の女に心ない言葉を向けた男はその場に蹲り、胸を抑えた。檻を見つめた幾人かが刺すような視線を感じた途端に意識を失った。慌てふためいた奴隷商人が何をしたのかと問い詰めようとした途端に泡を吹いて倒れた。青い眼の女が檻から腕を伸ばし、鍵の束を拾い上げて外へと解き放たれる。
「目を合わせるな!」
誰かが発した警告で人で賑わっていた市場は静まり返り、みな一様に俯いた。あの女を止めなければと正義感に駆られたひとりは彼女の一瞥を受けて石のように動けなくなってしまったので、止めようとするものは誰もいなくなってしまった。
青い眼の女はあたりを少し見回すと、やがてゆっくりと祖国へ向けて歩き始めた。
『高く高く』
書の先生には息子がいて、私が教室に入った時から教室の中では誰よりも書が上手かった。先生の書が大好きで教室に入った私からすると同じ屋根の下で誰よりも長く先生の指導を受けられるそのひとのことは妬ましく羨ましい存在だった。
「君はいいね。先生に褒められて」
彼が少し寂しげに言ったことを聞いてから教室をよくよく見てみると、書の上手下手に関わらず生徒を褒めがちな先生は彼のことを一切褒めてはいなかった。彼のことを見ていると先生の背中ばかりを見つめているようだった。
「お父さん、って呼んだことないの?」
「もう10年以上は呼んでない」
「書を書くのは、好き?」
「……嫌いになりかけてる」
洗い場で俯きながら筆を洗う彼をこのままにさせてはおけない。
「私、これからはもっと高みを目指す。あなたより書が上手くなってみせる!」
洗いたての筆を突きつけて宣言すると、彼は何言ってんだこいつという目で私を見た。
「だからあなたはいつも私より上手い存在でいて。ずっと私の上にいて」
「何それすごい勝手」
呆れながらも少しだけ笑った彼は、それ以降先生に言われるだけだった姿勢をあらためて書に取り組み始めた。どこへたどり着いても先を行く存在の彼には引き離されてばかりな気がしてこちらの気がめげそうになったりしながらも、私は追いつくことをやめようとはしなかった。
私が見上げているところにいる彼は今日もどこかでもっと高くに向かって走っている。立ち止まっていては彼に追いつけない。
「やるか」
真白い紙の上に墨を含んだ筆が躍りゆく。心の揺れもそのままに、私の軌跡はさらなる高みを目指し続けていた。