『ジャングルジム』
小さい頃からスカートを履かされていた。公園のジャングルジムにみんなが登っていたから親が見ている前で登ろうとしたら強く腕を引っ張られたので泣いてしまい、親は公園に連れて行ってくれなくなった。
いろんな反発と猛反対を経て家を出て、反動のようにパンツスタイルの服しか着ない大人になった。飲み会帰りに夜の公園を通りがかったときにふと昔の記憶が蘇り、今なら誰にも気兼ねなくジャングルジムに登れるのかと気がついた。
カバンを置いてジャングルジムをよじ登る。小さい頃に憧れて、親からやめなさいと切り捨てられたもののことがいくつか思い浮かんで胸にもやを形づくる。見てみたかったてっぺんからの景色は平坦ないつもの世界よりも少しだけ見晴らしが良かった。
ジャングルジムに登れなかったときのことをまた思い出す。どうして腕を引っ張ったりなんかしたの、とそのとき言葉にできなかった怒りや悲しみが口をついて出て、自分の中に根深く残るトゲの在処を見つけたような気持ちになった。
『声が聞こえる』(His Master's Voice)
ラッパ型のスピーカーから今は亡き兄の声が流れてくると、うずくまって眠っていた犬は耳をそばだて首を傾げてとことこと傍へと寄ってきた。
「懐かしい声だろう」
兄の声が犬の名前を呼ぶたびに彼は不思議そうにしながらもしっぽを緩やかに振っていた。ふいに視線を上げたのでつられてそちらを見てみるけれど、そこには変わり映えのしない我が家の一角があるばかり。犬は緩やかにしっぽを振って頻りにクンクンと鳴いていた。
『秋恋』
体育祭のときにひと目見た先輩のことが忘れられず情報を集め、接点を探し、体育館裏での告白まで漕ぎ着けた。
「好きです!」
「ごめん無理」
踵を返して去ろうとする先輩の前に駆け寄って立ちはだかり退路を塞ぐ。一言だけで告白を終わらせるなんてあんまりだと思ったのだ。引き下がれば先輩は行ってしまう。どうにかして会話を続けなければならない。
「なんでですか!せめて理由を!」
「えっと、話したことないから」
「今話してるじゃないですか!」
「……付き合ったところで来年卒業するし」
「会えない時間は愛を育みます!だから大丈夫です!」
「受験勉強で恋愛してる場合じゃない」
「息抜きにはいつでも付き合います!」
すると先輩はその言葉を聞いて大きくため息を吐いた。
「君の言う好きですってなんなの。話すってこういうことじゃないでしょ。それに待ってるだけでも大丈夫とか息抜きだけでもとか、君のやりたい恋愛ってこういうことなの?」
言われて何も言えなくなった。先輩はその場に留まってくれていたけど、付き合うことに前向きという雰囲気ではないことだけは明らかだった。
「君は全部一方通行すぎる。こっちの状況や都合も考えずに突然呼び出して一目惚れしたから付き合ってって、その段階でも無理なのに、断られかけたらなんでも大丈夫としか言わない。そういう人と俺は絶対に付き合いたくない」
言って先輩は私の側をすり抜けて行ってしまった。涙が滲んで来たのは先輩に言われたことのどれもがその通りだったから。振られた悲しさよりも自分の浅はかさと後悔が大きく、私はしばらくその場から動けなかった。
『大事にしたい』
付き合い始めのときに恋人のことは大事にしたいと思うのだけど、次第に相手の欠点ばかりが目につくようになり、嫌いになって別れてしまう。
「適応力、というか合わせてあげる気がないんだね。それか理想が高すぎる」
恋人のいないフリー状態になるとおつかれ会を開いてくれる友人は毎度毎度ストレートに胸に刺さる言葉を浴びせてくれる。言い返せないままジョッキを傾け、ならば自分が悪かったのかと思ってみる。思ってはみるけれど。
「でも欠点やだなーと思いながら付き合うのしんどいじゃん!」
「前も言ったけどさぁ、付き合う前にもうちょっと観察眼発揮しなよ」
今言われるまでそのアドバイスを忘れていたのでぐうの音も出なくなった私はジョッキをさらに傾けるしかなくなった。やれやれ顔で友人もジョッキを傾けたのでふたりともの手元に酒が無くなる。すると頼む間もなく次のビールを店員さんが運んできた。
「ビールでよかった?」
「あ、うん。ありがと」
先んじて頼んでいた友人の気配りに感心せざるを得ない。
「……毎回おつかれ会開いてくれてありがと」
「いえいえ」
おつかれ会の度に思うことは、友人は自分のことをもしかしたら好きなのではないかということ。けれど自分みたいな恋愛も長続きしないやつはめちゃくちゃいいヤツである友人に釣り合いはしないし、きっと迷惑ばかりかけてしまうだろうから、その方向に話を振ったことはない。
「おつかれ会ももう結構な回数やってんね」
「う、うん」
「次はいい恋愛にしなよ」
「ど、努力します」
言ってジョッキを傾ける友人もそういう方向に話を振ってはこないから、ただの自惚れの可能性もある。どちらにしても、自分にはもったいないぐらいのいい友人を大事にしたいと、今はそう思っている。
『時間よ止まれ』
駅へと向かう道のりを指先だけを繋いで生活の灯りやマンションの通路の規則的な明かり、街灯の下を過ぎながらゆっくりと歩く。楽しかった記憶はあるのに何をしていたかというとなにをするでもなかった時間は君がいたから成り立っていた。また会えるに違いないのだけど、別れに向かうこの時間が名残惜しい。
駅が近づくにつれて列車が行き交う音も聞こえてくる。乗るはずだった列車はゆっくり歩いていたせいでずいぶんと前に駅を発っていた。
「時が止まればいいのにね」
ふたり以外の時が止まれば残るはきっと楽しい時間だけ。列車の時間も明日やってくる仕事の時間も気にせずにふたりだけの時が過ごせたらどれほどよいことだろう。改札を渡る前、列車の時間の迫る頃に想像の中にだけ存在する時間を分かち合ったふたりはじゃあねとまたねに想いの丈を乗せて手を振って別れた。
繋いでいた手のぬくもりは指先からすぐ逃げてしまう。時よ止まれと思いながら指先をそっと握り込んだ。