『夜景』
夜道を走る車が電灯の下を通る度に窓には暗い景色とそれを見るともなく見つめる自分の顔が現れては消える。運転する父も助手席の母も後ろに乗る私も何も話さず、今さっきまでいた街から逃げるために離れる最中だった。
夜逃げをするのは初めてではない。だから最初の時は友達ともう二度と会えないかもしれない悲しみで泣いては怒られていた。今の私はまたも夜逃げに踏み切るしか無くなった親に恨みのようなものを募らせ、おかしな時期に転校してきた自分に優しくしてくれた人や、邪険に扱ってきた人のことを思い出し、その人たちとももう二度と会えないのだろうと諦めを抱いた。
遠ざかっていく街はあたたかな生活の灯りがいくつも点っていてきれいだった。どうして遠ざからなければならないのだろう、と最初の夜逃げのときに思ったことをまた思ってしまった。
『花畑』
昼間は太陽の方を向いて咲くひまわりの花が夕方になるとどの花も同じ方を向いて俯いているのがなんだか怖い。こどもの時からそう思っていたから、今でもひまわり畑が苦手だ。
苦手なのに、私はご近所のひまわり畑の前を通ってお母さんに頼まれた回覧板を回しにいかなければならない。今はまさに夕方で、昼間の暑さを忘れさせるような涼しい風が吹いている。西へと沈む夕焼け色の太陽がふっと姿を消したから、重たげな頭を項垂れさせるひまわりたちは遠目にもその姿を夕闇に翳らせていた。
ひまわりの前を通るときに思ってしまう。視界に入らないように俯きがちに歩く私のことを、項垂れたひまわりたちは覗き込みに来ているのでは、と。自分で思いついた想像なのにいよいよ怖くなってきた私は、急いで前を通り過ぎて回覧板を郵便受けに入れ、来た道を引き返す。そして下を向いたままひまわりの前を走り去る作戦に打って出た。ふいに視線を感じた気がしたけれどそれはきっと、たぶん、絶対に、気のせいに違いなかった。
『空が泣く』
小さな町の悪党の親分はあるとき小さなこどもが震える手で握り締めたナイフに刺され、それでぽっくりと旅立ってしまった。こどもの父親は長い間金を巻き上げられた挙げ句に病気で死んだというから自業自得ではあるのだろう。けれど親分にこどもの時分に拾われた俺や、人知れず孤児院に寄付を続けていたことを知る人たちは大いに悲しんだ。
親分の葬式に人が集まらなかったのは、親分がいなくなったあとの悪党たちが長い間目の上のたんこぶだったものがきれいサッパリ無くなった喜びで酒盛りをしているのもあるが、単純には世間様に嫌われていたからだろう。それでも大きな棺が小さなこどもたちの手で花に飾られるさまはその場にいた人の心の慰めになった。
墓場へと向かう葬列にぽつりぽつりと雨が滴ってくる。親分の泣くところはついぞ見たことがなかったけれど、それは今このときなのかもしれなかった。
『君からのLINE』
せっかくの連休だからと時間を気にせずゲームをしていたら夜から朝になっていた。明るみはじめた窓の外を見ながらベッドにのそのそと寝転びぐうすか眠っていたところ、スマートフォンから通知音が鳴る。
“今日ヒマ?”
暇ではあるけれど徹ゲーしてたので寝てたい。
“寝て起きても夕方じゃなかったら掃除しに来て”
りょ。
やや寝ぼけながらのメッセージのやりとりを経て目が覚めると時刻は昼を過ぎたところ。
「……掃除?」
どこへ掃除しに行くのか、そして誰とのやり取りだったのかを確かめようとアプリを見てみるけれど、誰ともやりとりをした形跡が残っていない。ならばあれは夢だったのかと思いながら水を飲み、シャワーを浴び、昼ごはんのカップ麺をすする。なにげなくカレンダーを見て来週も三連休だなと思ううちに掃除というワードに思い当たった。
「墓掃除か」
来週は秋分の日であり、あの世とこの世が近づく秋のお彼岸でもある。夢にまで出てメッセージを送ってきた人物はおそらく自分のご先祖のうちの誰かなのだろう。頼まれては行くしかないな、と観念して残りわずかのカップ麺をすすりあげた。
『命が燃え尽きるまで』
先ほどまで元気いっぱいにカサカサ走り回っていた触覚の長い黒光りした虫は、最近CMでも放送されているスプレーのワンプッシュであからさまに不自然な動きを見せ始めた。ひと昔前の記憶にある殺虫スプレーとあまりに違う薬剤の効きように企業の絶え間ない努力の成果を感じずにはいられない。
ただ、効果の程はあっても静かに穏やかに動かずに天に召されるという現象を引き起こすことはできないらしい。黒光りした虫はやがて苦しみにのたうち回るかのように縦横無尽に部屋を走り始めたので、私は全身の肌を粟立てさせながらあわてて部屋のドアというドアを閉めた。こうなってしまってはあの虫の命が燃え尽きるまで部屋には入れない。というか入りたくない。
しばらく時間を潰すしかないか、とスマートフォンに手を伸ばそうとしたところ、手元にもポケットにもその手触りがない。思い当たるのは締め切った部屋のテーブルの上。虫の命が尽きるのを待つか、犠牲を払って部屋に突入するか。私の心の天秤は振れに振れてまったく定まろうとはしてくれなかった。