『空を見上げて心に浮かんだこと』
火葬場から伸びる煙突から煙らしきものが見当たらないのは技術の進歩によるものだそうだ。かつて触れたことのある髪も肌も血肉も骨もすべて真っ白な灰となり、一部は手の中の小瓶に、あとは自然へと還っていった。
小瓶を懐に携えた俺は一人きりで観光地をぼんやり歩いていた。目に入る雄大な自然の広がる景色や他の観光客がはしゃぐ様子に心が動かされない。ふとベンチを見つけてそこに座ってしまうと、根が生えたように動けなくなってしまった。
見上げた空はよく晴れ渡り、浮かぶ雲を見るともなく見ながら彼のことばかりを思い返していた。カミングアウトをしたときから親に見離され縁を切られたと言っていた。死にたくなったこともあるけれど君と出会ってからそうでもなくなったと言っていた。死ぬのは怖いけれど君と別れることのほうがもっと怖いのだと言っていた。俺は、彼に先立たれてこれから先どうしたらいいのかわからなくなっていた。
この国で彼の後でも追おうか。そんなことを一瞬考えた途端に突風が吹き付け、観光客が驚いて悲鳴をあげるのが聞こえてきた。彼が俺を叱ったに違いない。根拠はないけれどそう思ってベンチから立ち上がると、何事もなかったように穏やかな風がそっと吹くばかりだった。
『終わりにしよう』
余命幾許もないパートナーに旅行に行きたいとせがまれて付き添うこととなった。体調に不安があったけれど、このところは調子が良いからと無理を通す形で海外のとある国へとたどり着いた。その矢先。
「実は言ってないことがたくさんあるんだけど」
そう言って彼は話を切り出した。
入院していた病院は国を発つ前に無理矢理に退院を済ませてきたこと。ふたりで暮らしていた部屋の自分の持ち物や資産の身辺整理をしてきたこと。国に戻るつもりがもう無いこと。このところ調子が良いと言っていたのは全くの嘘であること。
「この国へは思い出づくりの旅行じゃなくて、死なせてもらうために来たんだ」
自分たちのいる国では安楽死は認められていないが、この国では認められている。そう思い当たった瞬間に何か言おうとしたけれど、脂汗を垂らす彼を見て何も言えなくなってしまった。
「黙っててごめん」
「……せめて、相談のひとつでもしてほしかったよ」
「ごめん。でも、もう手配も済んで僕が行くだけになってる」
「俺は、君のこと最期まで看取ると決めてたのに」
「ごめん。君の手を煩わせたくなかった」
最後の最後に不満と遣る瀬無さをぶつけて寂しくなるだけにしかならないのだろうか。そう思いながらこの現状を変えられないかと言葉を並べるけれど、彼は何を言っても謝るばかりだった。
言葉が途切れ、ふたりとも何も言わない時間が長いとも短いとも思える程に過ぎてから彼が口を開いた。
「ほんとうは、病気が見つかったときから終わりにしようって言おうと思ってた」
顔色の悪い彼の目に涙が光っていた。
「けど、思ってるうちに時が過ぎて飛行機に乗る日が来て、ここまで君を付き合わせてしまった」
ふらつき始めた彼にとっさに肩を貸す。重いとも思えない身体の重みが悲しかった。
「死ぬよりも君と別れることがとてもつらくて、言い出せなかった。わがままで頑固でごめんなさい」
勝手なことばかり言う彼のことを放ってはおけず腕の中に収める。涙の匂いに塗れ、ごめんなさいとばかり繰り返す彼のことが可哀想で愛おしかった。
『手を取り合って』
車に乗って営業先へと向かう途中に黄色い日除け付きの帽子に水色のスモックを着たこどもたちが2列になって歩いており、前を行く保育士さんのあとを着いていくところに遭遇した。信号のない横断歩道に差し掛かろうとするのでゆるゆるとブレーキを踏んで車を止めると、対向の車も同じように早めのブレーキで車を止めにかかっている。列の前後にいた保育士さんが双方に頭を下げるので会釈を返す。こどもたちは二人一組に並ぶ手をしっかりと繋ぎ、空いた手を天に真っ直ぐと上げてにこやかに、しかし堂々とした足取りで横断歩道を渡っていった。キャッキャとはしゃぐ声が車越しにも聞こえて思わず頬が緩む。対向の車の運転手も言わずもがなだった。
『優越感、劣等感』
人からマウントを取られてドヤられたり、人から延々と自虐を披露されたりするのをイヤだなぁとつくづく思ってなるべく優越感も劣等感も持たないように、かつ距離を置いて過ごしてきた。そのせいか度を越した自慢や卑屈さのあふれるSNSを目にするとアレルギーのように体調が悪くなったりする。
そういったアレルギーには浄化系のお香がなぜかよく効くと小耳に挟み、半信半疑で100均でも売られているものを焚いてみたところほんとうに調子が良くなった。度を越した優越感や劣等感は意思に関わらず邪悪なものになってしまうということなのかもしれない。
『これまでずっと』
騙すつもりは無かった、ただ言い出せなかっただけ、という言い訳をした顔に私は悪くないと書かれており、思わず私は長年の付き合いである友人と思っていた女の顔をグーで殴った。学生時代にやんちゃをしていた頃以来のグーパンチにはキレがなかったけれど、久しぶりに手応えある殴り心地だった。
次に夫を振り返ると引き攣った笑みの張り付いた顔を強張らせていた。胸ぐらを掴む。これまでずっと良き夫だと思っていたけれど、これまでずっと何食わぬ顔で浮気を繰り返すような男だったとは。自分の見る目のなさに不甲斐なくなり、目の前で怯えた顔をする男の何が良かったのだろうと不思議に思えてくる。
「これまでずっとありがとう」
思ってもいないことを別れの挨拶とし、振りかぶった拳を握り固めて一切の躊躇も加減も混じえずに振り抜いた。