『星空』
夏の天体観測は暑さと虫との戦いだ。川辺に近い土手で携帯蚊取り線香を腰に下げ、煙に燻されているような気持ちで望遠鏡のファインダーを覗き込む。滲んでくる汗を首から下げたタオルで拭い、またファインダーを覗き込む。冬の寒い時期とはまた違った苦労もあるけれど、それを苦労とも思わないのはやはり星を見ることが好きだからだろう。
首から下げたペットボトルのお茶を飲んで一息ついていると、ふと辺りの草むらにかすかな緑色の光が明滅するのが見えた。星ではないそれは水辺に住まうホタルの光。草むらにじっと目を凝らしていると数十匹のホタルが淡い光を放ちながら飛び回っているのが見て取れたのは、普段から星ばかり見ているせいなのかもしれない。などと思いつつ地上の星空を眺めてペットボトルのお茶を飲む。そしてまた汗を拭い、ファインダーを覗き込むのを再開した。
『神様だけが知っている』
生まれて1ヶ月経つか経たないかの頃のわが子の写真が遺影として写真立てに収まっている。誰の手によるでもなく眠るようにしてまた神様の元へと帰っていったあの子のことと、普段はいるかどうかすら思ってもいなかった神様のことをいろいろと、ほんとうにいろいろと考えて、うちの子があんまりにもかわいいから神様は手放すのが惜しくなったのだろう、と私と妻は結論づけた。そうでもしなければ、前に進めないほどにふたりとも悲しみで疲れ果てていた。
誰のせいでもないことの理由は神様だけが知っている。遺影に向かってこっちもなんとか元気でやっている、と呟くと遠くに無邪気な笑い声が聞こえた気がした。
『この道の先に』
たまたま街で見かけたひとのファッションの格好良さに一目惚れのようになり、思わず声をかけていた。
「その服、どこで売ってますか……!?」
女性とも男性とも判別のつかない背の高いその人は軽い驚きのあと、どこの骨ともわからないちんちくりんな私に微笑んで言った。
「これはね、自分で作ったの」
服を作るなんてことは家庭科の授業でしか習わないことであり、服といえば買うものという認識しかなかった私は衝撃のあまりに思考が停止した。格好良いその人は何かを言っていたと思うのだが、ろくな受け答えのできなくなった私が気がついたときにはその場から姿を消していた。
家に帰って母にミシンはないかと問い詰め、発掘されたミシンで手当たり次第に縫い物を始めた。それからというもの手芸屋は行きつけの店となり、ハイセンスなファッション雑誌を眺めては見様見真似の試行錯誤が続いていった。ファッション雑誌を読むようになってから、街で見かけたあのひとが世界的にも有名なデザイナーだと知ったのもこの頃。憧れと独学で突然始まった裁縫の道を歩み続けていけばいつかまた会えることもあるのかもしれないと漠然とそう思っていた。
専門学校を経てちんちくりんなりにも格好良いものを作れるようになってさらに数年。
「あらアナタ。ずいぶん素敵な服着てるわね」
街角で女性とも男性とも判別のつかない背の高い人に声をかけられた。
「貴方こそ、めちゃくちゃ格好良い服着てますね……!」
年月を経ても格好良さの変わらないその人はいつかの邂逅の再現に悪戯っぽく微笑んだ。
『日差し』
荷を積ませたラクダが日を遮るもののない砂漠を進む。帽子から垂れる長い日除けは風になびき、砂混じりの乾いた風が刺すような日差しとともに肌にピシピシと吹き付けた。もう少しも経てば西に傾いた太陽は地平へ落ち、その頃には遠くに見える街にも着いて一息つけていることだろう。
オレンジ色の真っ直ぐな光が影を遠くに伸ばし、果てなく続く砂の山の複雑な砂紋と不思議な陰影を見せている。やがて薄暮の街に明かりがぽつぽつと灯り始め、急いた気持ちを察するかのようにラクダは歩みを速めていった。
『窓越しに見えるのは』
スマートフォンから顔を上げて窓の外を見るとさっきまで晴れていた空には灰色の雲が立ち込めており、降り出した雨と干しっぱなしの洗濯物が視界に映った。慌ててサンダルをつっかけ、ハンガーをまとめて抱えて家の中へと戻る頃にはごうごうと音が鳴るほどの豪雨が窓を叩いていた。やっちまった感に駆られていたけれどちょっぴり湿り気を帯びる程度で済んだのはまだ良かったほうだと内心胸を撫で下ろす。
天気予報アプリの雨雲レーダーが赤みがかっているのを見ながら雲を覗き込むのと、稲光が走ったのはほとんど同時だった。遅れることわずか数秒の轟音は地響きすら巻き起こす。洗濯物の次は家じゅうのコンセントからプラグを抜きに走ることとなった。