わをん

Open App
6/26/2024, 4:23:48 AM

『繊細な花』

雪の結晶を初めて見たのは幼い頃のとても寒い日のこと。手袋の上にそっと落ちた雪の華はこれまでに見た何よりも精巧で美しい芸術品で、それが自然に存在していることに幼いながらも強い感動を覚えた。
その日からお絵かき帳やスケッチブックは雪の華だらけになり、冬が来るのを今か今かと待ちわびるこどもになった。雪がモチーフのアクセサリーを集めるうちに自分で作ればいいのかと思い立ち、細工キットや細かいナイフなどを揃えて試行錯誤を繰り返した。今ではネットショップでちょっとは知られているハンドメイドの人となったけれど、自分の作ったものがあの日に見た雪の結晶に並び立てているとはまだまだ思えない。
「冬が早く来ないかな~」
夏の蒸し暑い日をどうにか過ごしながら今日も手元から雪の華を造り出していく。胸に残る繊細な花をいつか完璧に再現できる日が来るまで。

6/25/2024, 4:23:40 AM

『1年後』

空港から飛び立つ飛行機を見送ったのは1年前。海外出張へ向かった彼からは長くても2ヶ月ほどと聞いていたから一緒に行かなくてもいいだろうと考えていたけれど、やがて2ヶ月が経とうとする頃に出張の延長を知らされた。時差の関係で電話はたまにしかできず、やりとりはメッセージやSNSがほとんど。最初の頃のこまめな通知は次第に減っていき、不安になったし寂しくなったりもした。
そんな不安な心に2度目の延長が知らされる頃に彼からエアメールが届いた。紙で届く手紙なんてずいぶんと久しぶりで、わざわざレターセットをあちらで手に入れたのかと胸が温かくなる。懐かしい筆跡を読み進めていくと、忙しさでろくに私の相手ができていないのを気にしていることや、出張はおそらくまだ長引くこと、早くこちらへ帰りたいことなどがしたためてあった。読んだあとにはこれまでの寂しさや不安がすべて凪いでいた。メッセージで同じことを書かれていてもここまでの安心感はなかっただろう。
その日のうちにレターセットを買いに行き、厚めの便箋を初めてのエアメールで送ったのも思い出してみるともはや懐かしささえ感じる。1年前に飛行機を見送った空港で今は飛行機の到着を心待ちにしている。
彼とのエアメールの何度目かのやり取りにはこう書かれてあった。
“帰ってきたら、大事な大事なことを言います”
心の準備はたくさんしてきたけれど、いまだに心は落ち着いていない。

6/24/2024, 4:19:45 AM

『子供の頃は』

水の張られた田んぼを覗くと黒い体に尾だけが付いた生き物が植わった稲の周りを所狭しと泳ぎ回っていた。まだ1桁台の幼児だった頃の、手に持つものすべて握りつぶす記憶がうすぼんやりとだが残っており、そのせいでオタマジャクシにはちょっとした罪悪感がある。ななつまでは神のうち、という言葉にどうにか許してもらって今も生きている気がする。

6/23/2024, 2:02:12 AM

『日常』

朝。食パンにスライスチーズを乗せてトースターへ入れる。その間に昨日洗った食器を食器棚やカトラリー入れに片付け、タイマーで炊飯器に炊きあがったごはんをかき混ぜ、電気ケトルでお湯を沸かす。トースターのベルが鳴り響くタイミングにマグカップに入れたインスタントコーヒーにお湯を注いでミルクをちょい足しするのが間に合うと朝食の完成。一人暮らしの朝はこんな感じを長年続けてきたけれど、もう少しすると二人暮らしが始まる。そのために今日も不動産屋さんに相談しに行く予定だ。毎朝の日常が2人で暮らすとまた違う変化が起きて、それもまた日常になっていくのだろうか。そんな妄想をぽやぽや考えているとスマートフォンからメッセージの着信を知らせるメロディーが流れた。
“おはよう!もう起きてる?寝癖を直す時間はたっぷりめに取ろうね”
時計を見ると待ち合わせの時間が迫っているし、後頭部を触ると逆立つ寝癖の感触がある。短く返信を打った僕は朝食をモゴモゴと片付けて、あわてて洗面台へと向かった。

6/22/2024, 6:02:31 AM

『好きな色』

赤色の似合うブルベ冬に生まれたかったと思いながらのライブ開演前。Tシャツやパーカー、タオルに至るまで赤色が浸透しており、フロアに詰める男女たちはそれらを纏って幕が開くのを今か今かと待っている。バンドグッズに赤色が多いのは、バンドのボーカルが普段から赤い服ばかり着ているため。ブルべイエベの概念を知って似合う色と好きな色との剥離に少しばかり落ち込んだのは割と最近のことだ。自分に似合う色はいわゆるくすみカラーだけど、みんな似合うかどうかでその色を好きなわけではないのだろうなと周りをこっそり見渡しながら今着ているTシャツや、スニーカーの赤色を思う。
フロアのBGMの音量と照明が小さくなっていき時刻を確認すれば開演時間ジャスト。誰ともなく観客から歓声が上がる。暗い照明の中、出囃子として選ばれた曲が流れ、手ぶらでやってきたバンドメンバーが声援を受けながらステージに置かれた楽器を携えると視線を交わして今日のライブ最初の曲に備えた。
そうして演奏が始まった瞬間にはくすみカラーのこともブルベ冬のことも頭から離れて今見ているものに追いつくことでいっぱいになっている。今日もステージ上のボーカルは赤色に塗れて喉が裂けそうになるくらいの叫びを全身全霊を込めて上げていた。何に対してかわからない涙が滲むとともに、自分の好きな色はこのバンドを好きな限りは変わらないのだろうと思っていた。

Next