『風に身をまかせ』
多くの帆船が停泊する港町に船乗りたちが立ち寄ってからかれこれ一週間が経とうとしている。道に面した露天酒場で明るいうちから酒を煽る男に少年が尋ねた。
「おじさんたち、まだいるの?早く船乗りなよ」
「何だよボウズ。俺らがここに来た時は目ぇ輝かせて話をせがんだくせに」
「お話はどれもみんなおもしろかったよ。けど町の人たちがお酒や食べ物がどんどん無くなっちゃう、って心配してたんだ」
「そうは言っても俺ら風に身をまかせるタチだからよ、風が吹かねぇとどうにも動けねぇのよ」
そう言ってワインの瓶を煽る船乗り。酒場には同じようにやることもなくくだを巻く男たちで溢れ返っていた。すると遠くからなにやら声を張り上げて走ってやってくるものがいる。
「野郎ども!出航だ!」
やってきた男はそれだけいうと走り去り、一軒隣へ、また隣へと次々声を放ちながら遠ざかっていった。男の一声で今まで生気の薄い目をしていた男たちには火が灯っていた。
「おじさん、あの人誰?」
「うちの船長さまだよ。航海士からいい報せを受けたらしい」
カウンターに酒代を次々置いて酒場をあとにする船乗りたち。満員だった酒場はもぬけの殻となり、店主は心底ほっとした顔をしていた。
少年が港を眺めると今まで骨のないようになっていた男たちがきびきびと船で働いている。頬に風を感じたように思えて空に目をやると帆船の向こうにカモメたちが悠々と空を舞っていた。
『失われた時間』
学校からの宿題やお母さんに頼まれた草むしりなど、やるべきことはいろいろとあるのだけれど今日は日曜日。ついついゲーム機に手が伸びてついつい続きを再開してしまう。ゲームを楽しむ一方でやるべきことが頭の隅でそろそろやったほうがいいよと囁いていたけれど、コントローラーから手が離れない。あの祠をクリアしたらやろう。そう思っていたのに祠を出れば洞窟に行き当たる。洞窟を出たらやろう。そう思っていたのにどんぐりみたいな小人が助けを求めてくる。
窓の外からオレンジがかった光が差している。最近は日も長くなって夕方でもまだ明るい。そろそろ晩ごはんの時間だろうか。空腹を感じ、ゲームを切り上げてリビングに降りるとお母さんが晩ごはんの支度をしながら冷ややかな声で尋ねてきた。
「草むしりやった?」
「……マダデス」
「まだ明るいからできるよね?」
「ヤリマス」
外は春の陽気が薄れて少し肌寒く、少し薄暗い。家の周りによく伸びた雑草をぶちぶちと音を立ててむしると草の青臭さが立ちのぼり、それに混じる晩ごはんのいい匂いにおなかが余計に空腹を訴えてくる。
「宿題もやらなくっちゃ……」
失われた時間を思いつつ、腰を伸ばしてため息をひとつ吐いた。
『子供のままで』
「姉ちゃん、一緒に食べよ」
春の陽気を通り越して夏かと思うぐらいに暑い日。おつかいから帰ってきた弟がエコバッグからアイスを取り出して笑みを浮かべる。年の離れた弟はおつかいのごほうびを2つに割って食べられるアイスにしたらしく、その半分を私にくれるのだという。
「ありがと。じゃあお礼に先っちょあげる」
「いいの!?やったぁ!」
2つに割ったアイスの取っ手がついたシール部分、すなわち先っちょに詰まったアイスはなんだかおいしい気がするという感覚は今も昔も同じものなのだなともらった分をすすり上げ、もう一つの先っちょに手を付けた弟を微笑ましく思いながら見つめる。
同級生の男子たちは声変わりが始まったり、男子だけでつるんだりと少しずつ変わってきている。弟もいつかはそうなってしまうのだろうか。
手元のアイスを揉みながら尋ねる。
「アイス食べたら姉ちゃんと何して遊ぶ?」
「スマブラ!」
「スマブラでいいの?姉ちゃんまた勝っちゃうよ?」
「今日は勝つもん!」
アイスの冷たさを握り変えつつ吸い上げ、元気いっぱいに声を上げる弟はかわいい。いつかは変わってしまうなら、子供のままの今のうちにこのかわいさを堪能しておかないとという気持ちになる。半分のアイスを平らげた弟はいそいそとゲーム機の準備を始めた。
『愛を叫ぶ。』
日常生活で叫ぶなんてほぼないことだけど、コンサート会場となれば話は別だ。特設ステージでライトを浴びる男性アイドルたちが花道へと歩みを進めると黄色い声援は鳴り止まなくなる。大型モニター越しに眩しい笑顔が映れば歓声が上がる。おまけにウインクなんてされたらハートを射抜かれる音まで聞こえてきそうだ。
みんなアイドルの方を見ているからこちらがどういう素性かをあまり気にしていないのはほんとうにありがたい。冴えない中年で同性が好きで、けれどカミングアウトは親にもしたことがない。テレビに映る有名人のように強くはなれそうにないし、リアルの出会いに憧れはあるけれど貶められるのも傷つくのも怖かった。胸を張って生きることはとても勇気がいる。
ステージに存在する推しは一分の隙もなくかわいくてかっこいい。老若男女関係なくそう思う人たちがそれぞれ思い思いに声を出し、名前を呼んでいる空間がとても好きだった。自分もその声に連ねるために心からの愛を精一杯に叫ぶ。観客席に揃って揺れるペンライトの光を見ていると少し涙が出てきた。
『モンシロチョウ』
庭先のキャベツ畑に小さな白い蝶が舞っている。まだ小さなキャベツの傍にしゃがみこんで葉の裏を覗くと卵から出てきたばかりの小さな青虫がいたるところに這って柔らかな葉に穴を空け始めていた。
「わしと出会ったのが運の尽きよ」
家庭菜園の主になって一年も経つと悪役のセリフも言えてしまうものだ。一匹また一匹と捕まえて最終的には畑の土になってもらう。
「悪く思わないでね」
固まった腰を伸ばしながら親であろう蝶たちを眺めてそんなセリフをひとつ。いつかそのうちモンシロチョウたちに命を狙われる日が来るのかもしれないけれど、こちらとしてはかわいいキャベツが手を出されているのだ。許すまじモンシロチョウ。母と母の闘いに終わりはなく、かくも厳しいものなのだ。