『現実逃避』
地震と津波に火事、そして犠牲者の数を知らせる報道から逃れたくてイラスト投稿サイトばかりを見ていた時期があった。SNSもネットも自粛の姿勢が広まった。それが落ち着いた次には脱原発やがんばろうの文字が並ぶ中、そこだけがいつも通りに思えたのだ。ブックマークの履歴は私の心が守られた証だった。
『君は今』
娘のバレエの発表会を見たのはずいぶんと昔。同じ年頃、背格好のみんなとよちよちと群舞を踊るさまはひよこの集まりのようで可愛らしいものだった。仕事の休みが合わず、年に一度の発表会を見ることができないでいたのだが今年は十年ぶりに機会に恵まれた。
ひよこだったあの子はバレリーナらしい姿勢の良さと所作の美しさを叩き込まれてソロパートを踊るまでに成長していた。灰色のひよこがましろい羽をまとった白鳥になり、目の前のステージでライトを浴びて優雅に羽ばたいている。そんなイメージが浮かぶとともに涙が溢れて止まらなくなった。妻が隣から忍び笑いとともにハンカチを渡してくる。
万雷の拍手の中、立ち上がって娘の名を呼べば白鳥は満面の笑みでこちらに手を振ってくれた。ハンカチがいくつあっても足りなかった。
『物憂げな空』
天気はただの空模様なので良いも悪いもないと言う人の言い分はわかるのだが、くもりや雨などの気圧が低くなるような日には体調やメンタルがすこぶる悪くなるので自分にとっては良いも悪いもありまくる。今日のような曇り空はまさに天気の悪い日だ。早めに痛み止めを飲んで自衛に徹する。
職場で年かさの女性にあなたの健康状態に問題があるんじゃない?と言われたことは今でも思い出す。実際にそうなのかもしれないが、その時に思わず発した言葉はしばくぞだった。可能なら本当にしばいてやりたかったが怯えて引きつった顔をさせてしまい、挙げ句にその人は職場を去ってしまったので未遂に終わった。悪いことをしたと思っているが言い逃げされたとも思っている。
空は未だ晴れない。ろくでもない思い出やろくでもないことばかりが頭に浮かぶ時間をひたすらに耐えるしかない。
『小さな命』
一年前と比べて天気予報をよく見るようになった。小春日和はいっときのもので今日は冬らしく冷えた一日となりそうだ。
「きょうはくもりだね」
一年前には居なかった赤ん坊は泣いたり怒ったりと生きるのに忙しい。今は何を見てか機嫌よく笑って散歩の支度が終わるのを待っている。小さなポンチョに着られたようになった我が子の確かな重みを感じながら玄関の扉を開けば冷たい風が柔らかな頬を滑り小さくまばたかせる。梅の花や足下の野花たちはふいに差した陽光を浴びて春が近いと囁いていた。
『Love you』
職場にやってきた新人さんが外国の人だった。自国民ばかりのチームだったので自分も含めたみんながみんな緊張に震えたが、話をしないことには仕事は始まらない。歳が近いからということで教育係に任命された俺は彼に仕事を教えつつ言葉や文化の違いを感じ取り、それをみんなに共有するという立場になった。
翻訳アプリを交えながらも彼と話をしてみると自分がこれまで出会ったどの人よりも気が合うことがわかってきた。彼のことをもっと知りたくて仕事を抜きにして飲みに行くことも増えてきて、きょうも人で混み合うザ・居酒屋な店にふたりでビールをあおっている。
「缶ビールもおいしいけど、生ビールはやっぱ美味いね」
「それな」
とりあえずビールにとりあえず枝豆。むっしむっしと口に運びながらスラングもスラスラ言えるようになった彼ととりとめもなく話をする。彼がスマートフォンで見せてくるのは故郷に暮らす彼の婚約者の写真。とてもいい笑顔のツーショットは幸せそうだけれど、彼がいつかはこの国を離れるのだとわかって胸が少し痛んだ。少し曇った俺の顔を目聡く見つけてどうしたと聞かれるけれど、どう言い表せばいいのか。
「君がずっと、この国にいればいいのに」
「しばらくはいます。けれど、いつかは帰ります」
「俺は寂しいよ。君がいなくなることを考えただけで」
小さく感嘆の声を上げて彼は胸を押さえる。
「それは、熱烈な告白ですね」
「いや、どうだろう……そうなのかな?」
「私は、そう受け取りました」
人で混み合う居酒屋のカウンターの隣から大げさな音を立てて、彼が俺の頬にキスをする。外国の人はやることがストレートだ。すかさずおしぼりで拭うと彼は爆笑したので俺もつられて笑う。
「これは浮気になるんじゃないの」
「ノー。ノーカンです」
ふたりしてだらしなく笑う。酔いが回っているせいだ。