『どこにも書けないこと』
どこにも書けないことを手紙にしたためて直接郵便受けに置いてきた。
どこにも書けないことを書いたらどうなるか。秘密が秘密ではなくなり、真実が曝される。文字も言葉も発した瞬間に力を持つものだ。真実は何も知らない人の根幹を揺さぶり死に追いやるほどかもしれないが、自分は家族を奪われた身だから致し方ない。無知の上に成り立つ幸福が何で出来ているかを知ってほしかったのだ。
昏い気持ちになったまま結末を見届けずにその家を後にする。人殺しになってしまったかもしれないと思いながら。
『時計の針』
ノートパソコンに開いた白紙のエディターと見つめ合ってからずいぶんと経つ。散歩には行ったしコーヒーもまあまあ飲んだので気分転換はもうできない。明日やろう作戦は期日が迫っているのでもう効かない。時計の秒針が立てる音が普段は気にならないのに今はやけに気になってしまっている。もう一回ぐらい散歩に行っておこうかと思っていると、どんよりとした曇り空から雨粒がいくつも落ちて部屋の窓をしとどに濡らしたので希望が潰えた。
「雨かぁ」
薄暗くなった部屋から降りしきる雨の様子をぼんやり見つめ、小学生の夏休みの頃から追い込み型が変わっていないなぁとぼんやり思う。のろのろとノートパソコンの前に戻り、とりあえず空白を埋めるべくキーを叩く。次第に筆が乗る感覚があり、これならイケるかもしれないという思いと、いや油断するとケガをするぞという思いとが同時に湧き上がる。ノートパソコンのバックライトが暗くなった部屋を照らし、キーボードを叩く音だけが響く。秒針の音は存在を薄れさせていった。
『溢れる気持ち』
バチェラーパーティというものにお呼ばれされた。結婚を間近に控えた独身男性を仲間内で騒ぎつつ祝うというものだ。しかしSMSで知らされた居酒屋で通された席には彼ひとりだけだった。
「あれ、パーティ会場ここで合ってる?」
「うん。俺とお前のパーティだ」
というわけで、彼の独身最後のサシ飲みをすることになった。
お互いに酒飲みなので食べるのもそこそこに酒を注ぎ注がれて徐々に出来上がっていく。こんな時には言うつもりのなかったことがぽろりと零れ出てしまうから気をつけないといけない。
「実は俺、結婚したくないかもしれない」
新郎になる予定の彼がぽろりと零した言葉にどうしてと聞き返す。
「相手のことは好きだけど、いろいろと合わないところもあるなと思えてきた」
彼が言うには結婚を控えて同棲を始めてみたところ食べ物の好み、酒の楽しみ方、休日の過ごし方が自分とことごとく違うとわかってきたらしい。それはつまり、彼の楽しみを一緒には楽しめないということにもなる。
「どうしたらいいかな」
やや据わった目がこちらを見つめる。自分にできる選択肢はたくさんあるが、どうしたものか。
「結婚したくなくなったんなら、正直に伝えるといいと思う」
「でも、どう切り出したらいいかわからない」
「やるなら早いほうがいいよ」
「そうだけど」
「電話かけてあげようか」
「えっ」
「ほらスマホ貸して」
呼び出し音から数十秒経ってから、騒がしい雰囲気が電話越しに聞こえた。あちらもバチェロレッテパーティ開催中らしい。もしもしどうしたの、と初めて聞く女性の声はなんとなく品がなかった。それで踏ん切りがついてしまった。
「あの、結婚取り止めさせてください。僕が彼を貰っていきますので」
『は、えっ、ちょっとどういうこと?』
「言ったままの意味です。今から荷物をまとめますので」
それだけ言って電話を切った。ぽろりと零れ出てしまった言葉に彼の方は驚いて固まっているが、のちほどちゃんと話そう。
「じゃあ、荷物まとめに行こうか」
『Kiss』
新幹線に乗って、恋人の元へと向かっている。
遠方に住む恋人とは月に二度ぐらいの頻度で会えていたのが、流行り病が猛威を振るいに振るったせいで気軽には会えなくなってしまった。テレビ電話で連絡を取ってはいたけれど画面越しでは手も繋げないし抱き合えもしない。数年に渡る流行は互いの想いを募らせていった。
テレビや新聞で流行り病の扱いが引き下げられると発表されたその時に手配した新幹線がゆっくりと駅のホームに停車する。改札口で待っていてもよかったのに、恋人は降り立ったホームで待ち受けていた。お互いを確かめ合うように抱き合い、画面越してもマスク越しでもないキスをする。二人の間に涙の匂いが漂っていた。
『1000年先も』
人から仙人となるための修行を重ね神通力を授かった。同じように仙人となった仲間がいたのだが、ある日突然にこう言った。
「好きな女ができたんだ」
色欲を制して気に変じることは基礎的な修行のため、それを解放することは人に戻ることを意味する。
「これまでの修行が意味を為さなくなるぞ。本当にそれで良いのか」
「それでもいいさ。俺にとってはこれから先のことに本当の意味がある」
そうして人に戻った彼は思いを寄せていた女と夫婦となり子を成し、老いていった。足腰が弱りきり床に伏せがちとなった彼が小声で私を呼ぶ。別れた頃と見た目の変わらない私を見て、彼は少し笑った。
「俺の選んだ意味がお前には解ったか?」
「いいや、正直わからない」
「だろうな」
お前は昔からそういうやつだった、としわがれた声が言う。
「だから、頼みがある」
「なんだ」
「お前が俺の意味を解するまで、俺の血筋を見守ってほしい」
そんなことをしてなんの意味がある、と言おうとしたが、彼の最期の頼みだということを察して黙って頷いた。
「……もう少し長く生きたければ、私なら力をやれる」
「いいや、必要ない」
「玉蝉は要るか?」
「いらない。人として死にたいんだ」
そのようなやり取りをした数日のちに、彼は息を引き取った。
彼のことをうまく解ってやれないままに彼の血筋の見守りが始まる。彼の子は旅先で出会った女に惚れて頼み込んで婿入りした。彼の孫は流行り病に倒れて幼くして亡くなった。そのきょうだいは悲しみを胸に医者になった。医者の子は親に嫌気が差して悪たれになったが、連れ添いに子が出来たとわかると更生して真面目に働いた。連綿と、彼の息吹は途切れず続いていく。百年後にも、千年を越えても。
私が長く仙人として生きることと、彼が人として生き、人を残したことは、同義だったのかもしれない。彼はそれを教えようとしてくれたのだろうか。知らず涙が落ちた。
「私は、まだまだ未熟だな」
ようやく解ったか、と空耳が聞こえる。
この先も修行を重ね、そして人の営みを見届けよう。人の手に負えない厄災が迫るならば、仙人の矜持に賭けて守り尽くそう。彼に恥じない生き方を見せるために。