『勿忘草(わすれなぐさ)』
かつて私の恋人だったひとは川で溺れて亡くなった。春爛漫のさなかに行われた葬儀では長い冬から解き放たれて喜びに満ち溢れている世界と、愛した人を亡くして深い悲しみに沈む私や遺族との対比を思わざるを得なかった。
あなたを忘れずに生きることが修道女になって冥福を祈り続けることならよかったけれど、私の父はそうさせてはくれず、いつまでも独り身でいようとする私を見合いで嫁がせることに決めた。家のためを思えば最善だということはわかっている。
けれど、忘れないでという呪いじみた言葉は私を戸惑わせる。あなたではない人を愛することができるのか。あなたではない人と子を成して幸せに生きることができるのか。忘れないでと言ったあなたの分まで生きることは、あなたを裏切ることの連続ではないのか。
眠れないままに夜が更けて、私の嫁ぐ朝がやってくる。
『ブランコ』
サーカス小屋の高い梁。そこから垂れるふたつのブランコにスポットライトが当たり、ドラムロールが鳴り響く。長い間信頼し合っていると思っていたブランコ乗りの相棒は、知らぬ間に私から心を離して年若い男を追いかけている。舞台の上では仮面のように笑顔を貼り付けてはいるが、鬱陶しがられていることは他の団員にも知られるほどに明白だった。
ブランコで逆さまに揺れながら思ってしまう。今夜ここで飛び移ってくる相棒の手を離したらどうなってしまうだろう、と。思っただけで本当にそうするつもりは無かったのだ。スポットライトの光で何も見えないまま、観客の悲鳴だけが耳に響いた。
『旅路の果てに』
長い長い旅の終わりに待ち受けていた魔王をついに打ち倒した。けれど喝采も勝鬨も上がることはない。共に戦った仲間は物言わぬ骸となり、ただ一人生き残った僕も倒れたが最後、起き上がることができなくなった。体からじわじわと血が抜けていくのがわかる。傷を癒やすことも仲間を生き返らせることも今の僕には叶わない。
かつて立ち寄った村々のことを思い出す。みな一様に不安の中で暮らしていたが、今はもう何にも怯えなくてもいいのだと教え広めたかった。旅の始まりとなった城下町で暮らす母親にただいまと言いたかった。勇者からただの街人になったその時に、仲間のひとりに言おうとしていたことはついに言えずじまいになってしまった。後悔の涙にまみれながら、意識が遠のいていく。
『あなたに届けたい』
買ったもののまったく手を付けてくれないおもちゃが家にけっこうあるというのに、ペットショップで新しいおもちゃをまた買ってしまった。ちなみに戦績はあまりよろしくない。
喜ぶかどうかわからないものをなぜ買ってしまうのか。それは、ねこがどこからか狩ってきた虫や小動物らしきものをわざわざ持ってきてくれることに通づるものがある、と思う。喜ぶかどうかは関係なく、持ってきてくれたことが自分には嬉しい。掃除は少し嫌だけれど。
新しいおもちゃと保険のちゅーるを手に家路を急いだ。
『I LOVE...』
「あの、俺、君のことが」
好きだと言いかけたのに、彼女はその場から逃げるように走り出した。彼女は陸上部の短距離選手なのでそれはそれは速く走り、俺は陸上部の長距離選手なので追いつけないかもと思ったけれど彼女とは帰る方向が一緒なので行く先は同じなのだった。次第に距離が縮まり始め、スタミナ切れで肩で息をする彼女に辿りつくことができた。落ち着くまで待ったほうがいいだろうかとか、また逃げ出したらどうしようとか悩んでいるうちに彼女が言う。
「好きって言わないで」
これまで通りにお弁当一緒に食べたい。これまで通りにカロリーメイトはんぶんこしたい。これまで通りに一緒に帰りたい。好きって言われたら、これまでみたいな付き合いじゃなくなってしまうなら、好きって言ってほしくない。そう彼女は言った。
「……好き」
「なんで言うの!」
「いやめっちゃ好き」
「やめて!」
耳を塞ぐ彼女の手をそっと掴む。
「好きって言っちゃったけど、たぶん俺ら全然何も変わらないよ。今まで通りにお弁当食べるしカロリーメイトはんぶんこするし、一緒に帰ると思うよ」
「……ほんと?」
「本当」
耳から手を離してくれた彼女は少し涙目だ。
「だから、俺のことどう思ってるのか、教えてほしい」
加えて徐々に顔が赤くなっている。彼女が小さな声で話し始めるのを、いつまでも待っていられる。