『街へ』
鄙びた村で祖父を師匠に、野生動物を相手に武術の稽古に明け暮れていた。16になる年に祖父が亡くなりどうしたものかと思っていると都がにわかに騒がしい。西の国の城が一夜にして魔物に攻め滅ぼされ、魔王の復活を宣言したのだという。祖父からなぜ稽古をするのかと尋ねたとき、いつか魔王が復活するときのためだと返されたが、まさに今がその時だったのかと腑に落ちた。祖父の墓前に花を手向け、少ない荷をまとめて村を出る。仲間を探そう。東の国の城には冒険者の集う酒場があると聞く。そこでなら魔王を倒してみせるという勇者が現れるかもしれない。
『優しさ』
小学校の同級生に嘘つきの子がいた。わたしは芸能界からスカウトされたことがあるとか、有名人に話しかけられたことがあるとか。その子と幼稚園の頃から付き合いがある子によれば、周りがすごいねって言ってたら機嫌がいいからそうしているとのことだった。その子の周りの人たちはみんな優しいなと思っていた。
中学校に上がっても嘘つきは相変わらず、高校は別々になったのでそれからのことはよく知らなかったが、再会はその子のお葬式になってしまった。いじめを受けた末の行動だったそうだ。今となっては、周りがすごいねと言ってあげ続けたことは優しさだったのだろうかと思ってしまう。
『ミッドナイト』
草木も眠る丑三つ時、神社の杜のおちこちから木槌で釘を叩く音が響いている。昔も今も色恋に悩める人が縋る先の変わらなさを微笑ましく思ってしまう。濁りに濁った情念に宿る強さを美しく思ってしまう。願いを聞き届けるのが私に与えられた役割ならば、叶えずにはいられない。永い間ずっとそうしてきたのだから。
『安心と不安』
風の吹きすさぶひと気のまったくない冬の海岸にひとり衝動的に来てしまった。左手の薬指に輝く婚約指輪はふた月ほど前にプロポーズの言葉と共に受け取ったものだ。双方の両親にあいさつを済ませ、週末に少しずつ結婚式の段取りを進める最中にぽつりぽつりと湧き上がった不安が私をここまで連れてこさせたのかもしれない。
もちろん彼のことが嫌いになったわけではない。友達や同僚、親戚からもお祝いの言葉をたくさんもらった。なのにどうして先に進むことがこれほど不安なのか。暗い海の上には重たげな灰色の雲が垂れ込めている。ろくに上着も着てこなかったので体がどんどん冷えていくけれど、帰りたいという気持ちになかなかならなかった。
と、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。海岸沿いの道を走ってやって来たのは涙目になった彼だった。置いてきたコートを渡され、温かいペットボトルを渡され、カイロを渡される。
「ひとりで消えちゃうなんて、ずるいよ」
まだ息も整わないまま、彼が絞り出すように言った。それで、彼も私と同じように不安がっていたのかと気付かされる。
「もしかして、私のこと嫌いになった?」
「なってない。なるわけない」
「友達や職場のひとたちや、いとこからお祝いの言葉もらった?」
「もらったよ。みんなよかったねって、おめでとうって言ってくれた」
「けど、不安になっちゃった」
「……そうなんだよ」
カイロで少し温まった手で彼の冷たい手を繋ぐ。
「不安を持ち寄ると安心できるの、なんでだろうね」
少しの間のあとにわかる、と聞こえてきた。それで、家へと帰る道をふたりで歩くことになった。
『逆光』
「そこで見ていて」
夕焼けを背にして立つ彼が目を閉じる。伸びをしたときや関節が鳴るときのような音と共に彼の体が少しずつ姿を変えていく。腕や脚は獣のようになり、背中からは翼が現れた。頭には一対の角が聳えて禍々しい形を曝け出している。人の姿だったときの面影はどこにも見当たらない。彼の変身の一部始終を目の当たりにしながら、別人と対峙しているような気持ちになった。
「おそろしい姿だろう」
「うん、正直そう思う。君じゃないみたいだ」
指先から伸びる尖った爪を西日が照らす。彼の表情は逆光に隠されて読むことができない。笑っているのかもしれなかったし、悲しんでいるのかもしれなかった。