『安心と不安』
風の吹きすさぶひと気のまったくない冬の海岸にひとり衝動的に来てしまった。左手の薬指に輝く婚約指輪はふた月ほど前にプロポーズの言葉と共に受け取ったものだ。双方の両親にあいさつを済ませ、週末に少しずつ結婚式の段取りを進める最中にぽつりぽつりと湧き上がった不安が私をここまで連れてこさせたのかもしれない。
もちろん彼のことが嫌いになったわけではない。友達や同僚、親戚からもお祝いの言葉をたくさんもらった。なのにどうして先に進むことがこれほど不安なのか。暗い海の上には重たげな灰色の雲が垂れ込めている。ろくに上着も着てこなかったので体がどんどん冷えていくけれど、帰りたいという気持ちになかなかならなかった。
と、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。海岸沿いの道を走ってやって来たのは涙目になった彼だった。置いてきたコートを渡され、温かいペットボトルを渡され、カイロを渡される。
「ひとりで消えちゃうなんて、ずるいよ」
まだ息も整わないまま、彼が絞り出すように言った。それで、彼も私と同じように不安がっていたのかと気付かされる。
「もしかして、私のこと嫌いになった?」
「なってない。なるわけない」
「友達や職場のひとたちや、いとこからお祝いの言葉もらった?」
「もらったよ。みんなよかったねって、おめでとうって言ってくれた」
「けど、不安になっちゃった」
「……そうなんだよ」
カイロで少し温まった手で彼の冷たい手を繋ぐ。
「不安を持ち寄ると安心できるの、なんでだろうね」
少しの間のあとにわかる、と聞こえてきた。それで、家へと帰る道をふたりで歩くことになった。
1/26/2024, 5:59:17 AM