『I LOVE...』
「あの、俺、君のことが」
好きだと言いかけたのに、彼女はその場から逃げるように走り出した。彼女は陸上部の短距離選手なのでそれはそれは速く走り、俺は陸上部の長距離選手なので追いつけないかもと思ったけれど彼女とは帰る方向が一緒なので行く先は同じなのだった。次第に距離が縮まり始め、スタミナ切れで肩で息をする彼女に辿りつくことができた。落ち着くまで待ったほうがいいだろうかとか、また逃げ出したらどうしようとか悩んでいるうちに彼女が言う。
「好きって言わないで」
これまで通りにお弁当一緒に食べたい。これまで通りにカロリーメイトはんぶんこしたい。これまで通りに一緒に帰りたい。好きって言われたら、これまでみたいな付き合いじゃなくなってしまうなら、好きって言ってほしくない。そう彼女は言った。
「……好き」
「なんで言うの!」
「いやめっちゃ好き」
「やめて!」
耳を塞ぐ彼女の手をそっと掴む。
「好きって言っちゃったけど、たぶん俺ら全然何も変わらないよ。今まで通りにお弁当食べるしカロリーメイトはんぶんこするし、一緒に帰ると思うよ」
「……ほんと?」
「本当」
耳から手を離してくれた彼女は少し涙目だ。
「だから、俺のことどう思ってるのか、教えてほしい」
加えて徐々に顔が赤くなっている。彼女が小さな声で話し始めるのを、いつまでも待っていられる。
『街へ』
鄙びた村で祖父を師匠に、野生動物を相手に武術の稽古に明け暮れていた。16になる年に祖父が亡くなりどうしたものかと思っていると都がにわかに騒がしい。西の国の城が一夜にして魔物に攻め滅ぼされ、魔王の復活を宣言したのだという。祖父からなぜ稽古をするのかと尋ねたとき、いつか魔王が復活するときのためだと返されたが、まさに今がその時だったのかと腑に落ちた。祖父の墓前に花を手向け、少ない荷をまとめて村を出る。仲間を探そう。東の国の城には冒険者の集う酒場があると聞く。そこでなら魔王を倒してみせるという勇者が現れるかもしれない。
『優しさ』
小学校の同級生に嘘つきの子がいた。わたしは芸能界からスカウトされたことがあるとか、有名人に話しかけられたことがあるとか。その子と幼稚園の頃から付き合いがある子によれば、周りがすごいねって言ってたら機嫌がいいからそうしているとのことだった。その子の周りの人たちはみんな優しいなと思っていた。
中学校に上がっても嘘つきは相変わらず、高校は別々になったのでそれからのことはよく知らなかったが、再会はその子のお葬式になってしまった。いじめを受けた末の行動だったそうだ。今となっては、周りがすごいねと言ってあげ続けたことは優しさだったのだろうかと思ってしまう。
『ミッドナイト』
草木も眠る丑三つ時、神社の杜のおちこちから木槌で釘を叩く音が響いている。昔も今も色恋に悩める人が縋る先の変わらなさを微笑ましく思ってしまう。濁りに濁った情念に宿る強さを美しく思ってしまう。願いを聞き届けるのが私に与えられた役割ならば、叶えずにはいられない。永い間ずっとそうしてきたのだから。
『安心と不安』
風の吹きすさぶひと気のまったくない冬の海岸にひとり衝動的に来てしまった。左手の薬指に輝く婚約指輪はふた月ほど前にプロポーズの言葉と共に受け取ったものだ。双方の両親にあいさつを済ませ、週末に少しずつ結婚式の段取りを進める最中にぽつりぽつりと湧き上がった不安が私をここまで連れてこさせたのかもしれない。
もちろん彼のことが嫌いになったわけではない。友達や同僚、親戚からもお祝いの言葉をたくさんもらった。なのにどうして先に進むことがこれほど不安なのか。暗い海の上には重たげな灰色の雲が垂れ込めている。ろくに上着も着てこなかったので体がどんどん冷えていくけれど、帰りたいという気持ちになかなかならなかった。
と、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。海岸沿いの道を走ってやって来たのは涙目になった彼だった。置いてきたコートを渡され、温かいペットボトルを渡され、カイロを渡される。
「ひとりで消えちゃうなんて、ずるいよ」
まだ息も整わないまま、彼が絞り出すように言った。それで、彼も私と同じように不安がっていたのかと気付かされる。
「もしかして、私のこと嫌いになった?」
「なってない。なるわけない」
「友達や職場のひとたちや、いとこからお祝いの言葉もらった?」
「もらったよ。みんなよかったねって、おめでとうって言ってくれた」
「けど、不安になっちゃった」
「……そうなんだよ」
カイロで少し温まった手で彼の冷たい手を繋ぐ。
「不安を持ち寄ると安心できるの、なんでだろうね」
少しの間のあとにわかる、と聞こえてきた。それで、家へと帰る道をふたりで歩くことになった。