『君に会いたくて』
推しに会いに行くと決めた。健康と身なりに気を遣わない生活を続けてきたのでマイナスをゼロに近づけることから始める。まずはラジオ体操。次にウォーキング、そしてランニングへ。その過程で体は食べ物で構成されるとわかってきたので間食を減らして朝昼晩決めた時間に三食取り、プロテインも飲むようになった。睡眠も大事だ。夜明け近くまで起きていたのを8時間睡眠確保のために寝る時間を逆算できるようになった。
動画サイトにはメイク初心者に向けた指南動画がたくさんある。スキンケアから始まり眉毛のカット、顔そり、メイクの順番、落とし方もしっかり学んだ。この顔にはどんな色やスタイルが合っているのかを考える中で服にも同じことが当てはまると気づき、手持ちの服をごっそり入れ替えた。
マイナスからややプラスにはなったのではないかと自分で思えるようになったけれど、それでも推しに会うのには勇気がいる。やっぱり自分にはまだ早いのではと逃げの言い訳をしたくなってきたところにスマートフォンから通知が来た。今まさに行こうとしているイベント会場を背景に推しが笑顔で映っている画像がSNSに投稿されたのだ。きょうも推しが尊い。推しに会いに行くと決めたときの気持ちを思い出す。
「推しを見ずに死ねるか」
無気力が極まって自分は誰の役にも立っていないという思いに駆られて消えてしまいたくなったときがある。自分の中の悔いを探したときに出てきた言葉がそれだった。今の自分はあの頃に比べて格段に良くなっている。それは自分ががんばったおかげであり、推しがいたからできたことだ。よしと気合いを入れて立ち上がり、玄関へと向かう。推しが待ってくれている。
『閉ざされた日記』
人の気配の無い街に人の生活の名残だけがある。金目のものはあらかた漁り尽くされて、割れた食器やこどもの玩具、もういない人たちの写真などが土に還るのを待っている。砂埃の混じる風が可愛らしい表紙の冊子を捲っていく。拙い文章で書かれた日記はある日を境に文字が埋められることはなくなった。風がいたずらに吹き乱したあとの日記をもう誰も読むことはない。
『木枯らし』
そうだ、金髪にしようと思い立ったのは風のものすごく強い日だった。当日予約ができる美容院をネットで探し、玄関のドアを開けたところで吹き込む風の冷たさにめげそうになる。けれどこの前買ったかわいいニットのマフラーと帽子を装備して気持ちをなんとか持ち直した。
気持ちって不思議だ。カバンにちょっとしたお菓子があると学校やアルバイトで落ち込むことがあっても、わたしにはお菓子があるからな、と思うことでちょっとだけがんばれたりする。やる気が出ないよと友だちにメッセージを打っていい感じのスタンプが返ってきただけでもちょっとだけやる気が出たりする。
ブリーチとカラーをセットでやるのは初めてだったので世の中の金髪の人たちはこんなに時間のかかることをやっているのかと驚いた。けれど仕上がった頭を鏡で見たときのテンション上がり具合が半端ない。かわいいニットのマフラーと帽子に金髪が相まって余計にかわいく見える。
美容院を出るともう日が傾いていて風もさらに冷たくなっていた。美容院の人曰く、きょうの風は木枯らし1号だったらしい。けれど今のわたしはなんというか無敵だ。いま着ているコートはかわいいのだけれど、もっとこの頭に似合うものがあるはずだという気がものすごく湧いている。なんでもできる気がする気持ちを胸に夜の明かりを灯す街へと足を運んだ。
『美しい』
美醜の感覚は人それぞれだ。花咲く瞬間は美しいし、星が流れて光る瞬間も美しい。流れ出る血は美しいし、赤く燃え盛る火も美しい。
一軒の民家から轟々と火の上がるさまが高台からようやく見えてきた。火事は火の手が見えてからでないと気づかれにくい。野次馬が集い始め、遠くから消防車のサイレンも唸りを上げ始めた。もっと近くで見れたらどれほど美しいかと想像するが、遠くで見つめるのも趣があっていい。けれど美しい瞬間はあっという間だ。花はいずれは枯れゆき、星は塵と成り果ててしまう。到着した消防車の放水によって炎の勢いが徐々に削がれていくと途端に興味が薄れていった。今日見た美しいものは心に大事にしまい込もう。いつか飽きが来るその時までは。
『この世界は』
眼下に荒れる海と尖った岩の群れが見える。吹き付ける風は強く、寒さで耳が千切れそうだ。
小さな頃からあまり恵まれず、大人になっても貧しくひもじかった。世界はずっとクソみたいだと思っていた。世の中に恨みつらみをたくさん吐いたが世界は変わらず、そのぶん自分が濁るだけだった。
曇天から一筋差した光が海へと届いて輝いている。とても美しかった。この世界は鏡のようなものかもしれない。見る人が美しいと思っていれば美しく映り、クソみたいだと思っていれば汚らしく映る。もっと早くに気がついていれば良かった。もうどこからやり直せばいいのかわからない。