『閉ざされた日記』
人の気配の無い街に人の生活の名残だけがある。金目のものはあらかた漁り尽くされて、割れた食器やこどもの玩具、もういない人たちの写真などが土に還るのを待っている。砂埃の混じる風が可愛らしい表紙の冊子を捲っていく。拙い文章で書かれた日記はある日を境に文字が埋められることはなくなった。風がいたずらに吹き乱したあとの日記をもう誰も読むことはない。
『木枯らし』
そうだ、金髪にしようと思い立ったのは風のものすごく強い日だった。当日予約ができる美容院をネットで探し、玄関のドアを開けたところで吹き込む風の冷たさにめげそうになる。けれどこの前買ったかわいいニットのマフラーと帽子を装備して気持ちをなんとか持ち直した。
気持ちって不思議だ。カバンにちょっとしたお菓子があると学校やアルバイトで落ち込むことがあっても、わたしにはお菓子があるからな、と思うことでちょっとだけがんばれたりする。やる気が出ないよと友だちにメッセージを打っていい感じのスタンプが返ってきただけでもちょっとだけやる気が出たりする。
ブリーチとカラーをセットでやるのは初めてだったので世の中の金髪の人たちはこんなに時間のかかることをやっているのかと驚いた。けれど仕上がった頭を鏡で見たときのテンション上がり具合が半端ない。かわいいニットのマフラーと帽子に金髪が相まって余計にかわいく見える。
美容院を出るともう日が傾いていて風もさらに冷たくなっていた。美容院の人曰く、きょうの風は木枯らし1号だったらしい。けれど今のわたしはなんというか無敵だ。いま着ているコートはかわいいのだけれど、もっとこの頭に似合うものがあるはずだという気がものすごく湧いている。なんでもできる気がする気持ちを胸に夜の明かりを灯す街へと足を運んだ。
『美しい』
美醜の感覚は人それぞれだ。花咲く瞬間は美しいし、星が流れて光る瞬間も美しい。流れ出る血は美しいし、赤く燃え盛る火も美しい。
一軒の民家から轟々と火の上がるさまが高台からようやく見えてきた。火事は火の手が見えてからでないと気づかれにくい。野次馬が集い始め、遠くから消防車のサイレンも唸りを上げ始めた。もっと近くで見れたらどれほど美しいかと想像するが、遠くで見つめるのも趣があっていい。けれど美しい瞬間はあっという間だ。花はいずれは枯れゆき、星は塵と成り果ててしまう。到着した消防車の放水によって炎の勢いが徐々に削がれていくと途端に興味が薄れていった。今日見た美しいものは心に大事にしまい込もう。いつか飽きが来るその時までは。
『この世界は』
眼下に荒れる海と尖った岩の群れが見える。吹き付ける風は強く、寒さで耳が千切れそうだ。
小さな頃からあまり恵まれず、大人になっても貧しくひもじかった。世界はずっとクソみたいだと思っていた。世の中に恨みつらみをたくさん吐いたが世界は変わらず、そのぶん自分が濁るだけだった。
曇天から一筋差した光が海へと届いて輝いている。とても美しかった。この世界は鏡のようなものかもしれない。見る人が美しいと思っていれば美しく映り、クソみたいだと思っていれば汚らしく映る。もっと早くに気がついていれば良かった。もうどこからやり直せばいいのかわからない。
『どうして』
空港から飛行機が飛び立っていく。どうしてあの人を乗せた飛行機は私を置いて行ってしまうのか。それは、着いてきてほしいと言われたときに私が返事を言い淀んでしまったから。見送りに行った帰り道、バスに揺られながらどうしてあの時すぐに答えられなかったのかとずっと後悔していた。あの人にあんな顔をさせたいわけではなかった。このままではあの人が帰ってくるまでずっとどうしてに囚われてしまう。
二週間かけて仕事を辞め、家財を処分し、住んでいたマンションを引き払った。スマートフォンから一通メールを送る。
「遅くなってごめん。今から行きます」
私を乗せた飛行機が空港から飛び立つ。後悔は置き去りにしたから荷物はトランクケースひとつだけになった。