きっといつまでも埋まることはないのだろう。
当たり前にそこにあった。心の中を、自分を占めているとは思っていなかった。消えてしまってから気付いた。気付けただけ幸いなのか。大事だったのだろう。失われたものは戻らない。
ぽっかりと空いた穴。そこにあったものの代わりに何が入れられるだろうか。代わりなど存在しない。わかりきったことだ。だから、何もないことを感じている。
空虚。それを抱えることはできるのだろうか。
わたしばかり恋しいのよ。
女は言った。自分ばかり苦しい思いをしているのだと。男にとって、自分の優先順位は高くないのだと。自分ばかり嫉妬に駆られていると。醜いことはわかっていても思いは募るばかりで、愚かにも返してほしいと思ってしまうのだと。
男は黙って聞いていた。女の言い分を理解したわけではない。反論もある。
俺がきみを好いていないなどありえない。
男は言った。表情には出ていないだろうが、誰より大事なのは女だと。嫉妬心を抱くのは自分も同じであると。同じ気持ちであってほしいと望んでいるとも。
女の表情は晴れない。男への疑わしげな視線を隠さない。
男は女を抱きしめる。
この音が嘘だと思うのか。
女は何も言わない。言えないままその腕を男の背に回す。
同じはやさで、同じ大きさをしている。
お互いにそれだけを感じていた。
きみがくれた海。
それが、この貝殻だ。
耳に当てると波の音がするよ。
きみの言ったとおり、耳に当てると音がする。それが、海の波音なのか確かめるすべはない。
海には行ったことがない。この街から海は遠く、そう簡単には行けないのだ。この街には自分のやるべきこともある。
君と海に行きたい。
この貝殻をくれたときのきみの言葉。ずっと忘れていない。
机の上に、いつも見えるところに置いている。そして、行けない言い訳をひとつずつ消していく。
きみと海に行きたい。
同じ気持ちでいる。自分の本音を貝殻にだけ囁く。
積み重なる、積み重なる
あなたの小さな気遣いが
降り積もる、降り積もる
あなたの小さなやさしさが
大きな愛がそこにある
推しはいればいるほどいい。
彼女は言っていた、推しは増えるものだとも。変わることはないのだと。時期によって少し熱量が異なるだけで推しであることに変わりはない。笑顔でそう言っていた。彼女が今よく話す推しのことではなく、以前より推している人の話を振ってみれば、その口は止まることなく話が続くのだから彼女の言い分には納得する他ない。
推しが死んだ。
彼女は暗い顔でそう言った。これを悲壮感漂う、というのだろう。実例を見た。
詳しく話を聞いてみると、あるシリーズの小説に推しているキャラクターがおり、最新刊でそのキャラクターが死んだという。推しが死ぬのははじめてではないし、主人公にとっての保護者的な立場の人物だったので彼の成長のためだろう。そう言いながら彼女の目は潤んでいた。
自分のことではなく、あくまで推しなのにそこまでの熱量向けるのはわからない、という声を聞いたことがある。彼女を見ているとその意見に頷ける部分もある。でも、それ以上に彼女はいきいきとしているから、他者に迷惑をかけなければ何と言われようと気にしないでいいように思う。その声については彼女も知っていたらしく、別の人間だから相容れない価値観もあるよ、と苦笑を見せていた。
推しのことで一喜一憂する彼女は眩しい。人の心に灯火があるとしたら、彼女の心の灯火は煌々と揺れているのだろう。