夜空を越えて、その先へ
光射すその日を待っている
時計が好きだ。構造に詳しいわけではない。修理の技能を持っているわけでもない。ただ、時計が好きだ。学びたい気持ちがないわけではないけれど。
置き時計はお気に入りの作家の素敵な時計。
腕時計は五本――電池式のブレスレットタイプが二本、ねじ巻き式のが一本、通常イメージされる電池式が二本ある。
懐中時計も三つある。ひとつだけ電池式だ。
そして、いずれもアナログ時計である。
針の動きも歯車の動きも好きだから、ムーブメントが見える構造はより好みだ。針の動く様子をぼんやり見ていて、針の重なる時がくる。何となく少し得したような気持ちになる。
正直に言えば、そんなに時計を持っていても腕は一対しかない、と思うことはある。だが、どの時計にも良さがあり、その日の時計を選ぶのも楽しい。
私は時計が好きだ。
「地獄の果てまで、いきませんか?」
言葉とともに差し出された手の持ち主、目の前に立つ胡散臭い男を見る。とはいえ今の彼から胡散臭さは感じられない。「いつもの笑顔」をどこに忘れてきたのか。目だけは真剣な色を携えている。指先が震えているのは見ないふりをした。
飄々とした掴みどころのない男だ。いつも笑みを浮かべている。人付き合いに関しては線を引いており、わたしの知る限りでは誰にも踏み込ませていなかった。もちろん、わたしも彼の本音を聞いたことはない――いくらわたしが願っても聞くことはないだろう。
さほど短い付き合いでもない。かといって親しくもない。結局わたしも本音で話していないのだから、彼の本音を望むなど烏滸がましいのだろう。
わたしが自室で嗚咽を上げていたとき、彼は何をしていただろう。わたしが汚れの落ちた汚れた手を洗っているとき、彼は何をしていただろう。きっと誰よりも結果を出していたに違いない。あの頃から今に至るまでわたしは未熟だ。偽善者の仮面を捨てきれなかった、何の役にも立たないのに。
彼が優秀だというのは知っていた。妬ましげな声も、憧れる声も聞こえていた。知人とも呼べない同僚に話を振られても「関わりがないから何も思うことはない」と返したのは比較的記憶に新しい。
本当は一度だけ、たった一度だけ組んだことがある。
今にして思えば随分昔のことだ。彼が優秀だという噂も立っていない頃なのだから。だというのに、そのときには彼の冷たい目に気付いて、憧憬とともに畏怖を抱いていた。
夜闇に姿を隠したある一夜。指示に従い結果を残し、それぞれ評価を得た、それだけのこと。
その後、彼は結果を積み上げていった。住む世界が違うとは思わなかった。同じ穴の狢だ。それでも、違う場所にいるのだと疑わなかった。
彼とはそれきりのはずだった。
組織は混乱している。存在が知れてしまったらしい。統率などあったものではない。各々逃げ出していた。罪については承知しているだろう。だからこそ逃走するのだ。
我々に選択肢がなかった、と言う者もいるという。果たしてどれだけ信用できるのか。そして、我々には本当に選択肢がなかったのか。そのようなことを考えつつ、逃げ延びる計画を立てていた。わたしも例に漏れず、自分がかわいかった。
そんなときにこの男が現れた。
わたしは何も言わずに男を見ていた。彼の手に視線を落とす。
「今までは知人と呼べずとも問題ありませんでした」
距離を詰める必要はなかった。指示の範囲内でそれぞれが動いていた。親しくなりすぎた者の死に役目を忘れ始末された者を見た。心などいらなかった、そのはずだった。
「ただ、本当はあなたと話してみたかったのです」
あの夜からだろうか。だとすれば、わたしも同じだ。あなたのことが知りたくなった。目を合わせる。
「明るい道ではありませんから、余計に危険かもしれません。それでも――」
「いきます、あなたと。どこまでも、いつまでも」
男に最後まで言わせず、わたしは手を重ねた。
彼は不思議な体験をしたらしい。しかし、もうほとんど覚えていないと言っていた。翌日からすぐに落ちていくようだった、とも。
夕方、家の近くの道を歩いていた。彼は帰宅しようとしていたらしい。ある辻で言葉を拾ったという。
「みーつけた」
気が付くと見知った道ではなかった。橙に染まる空、そして見知らぬ町。人影はなかった。知らぬ商店、知らぬ家。十代も半ばというのに迷子、しかも家の近くでなど笑えないと思ったという。
ふと何者かとすれ違う。どこから現れたか知れず、すれ違うときにそれに気付いたという。それまでその存在には気付かず、視界に入っていたのかもわからなかった。彼とすれ違ったものは、人ではなかったらしい。具体的にどの部分を見たのか定かでないが、どうにも瞬時に人ではないと判断したとのことだ。
そして果たして家に帰ることができるか不安になった。しかし声は上げず拳を握りしめる。周囲をそっと見回す。どう見ても知らない場所だった。動くか止まるか。その場でぐるぐる歩くことにしたらしい。
そうしているうちに元の辻の近くに出た。
何者かとすれ違った以外は何にも遭遇していないらしい。
逢魔が時の神隠し。
彼は、自身の記憶すら疑わしいという。そんなおぼろげな記憶の話だった。
さようなら
どうか、これからのきみが笑顔でありますように
もう苦しむことがありませんように
本当はすぐに会いに行きたいけれど
きっときみは怒るし悲しむから
少しだけ待っていて
また、たくさん話をしようね
笑い合おうね