アカサキオキ

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9/24/2025, 12:35:21 PM

 時計が好きだ。構造に詳しいわけではない。修理の技能を持っているわけでもない。ただ、時計が好きだ。学びたい気持ちがないわけではないけれど。

 置き時計はお気に入りの作家の素敵な時計。
 腕時計は五本――電池式のブレスレットタイプが二本、ねじ巻き式のが一本、通常イメージされる電池式が二本ある。
 懐中時計も三つある。ひとつだけ電池式だ。
 そして、いずれもアナログ時計である。

 針の動きも歯車の動きも好きだから、ムーブメントが見える構造はより好みだ。針の動く様子をぼんやり見ていて、針の重なる時がくる。何となく少し得したような気持ちになる。

 正直に言えば、そんなに時計を持っていても腕は一対しかない、と思うことはある。だが、どの時計にも良さがあり、その日の時計を選ぶのも楽しい。

 私は時計が好きだ。

9/23/2025, 12:02:54 PM

「地獄の果てまで、いきませんか?」
 言葉とともに差し出された手の持ち主、目の前に立つ胡散臭い男を見る。とはいえ今の彼から胡散臭さは感じられない。「いつもの笑顔」をどこに忘れてきたのか。目だけは真剣な色を携えている。指先が震えているのは見ないふりをした。


 飄々とした掴みどころのない男だ。いつも笑みを浮かべている。人付き合いに関しては線を引いており、わたしの知る限りでは誰にも踏み込ませていなかった。もちろん、わたしも彼の本音を聞いたことはない――いくらわたしが願っても聞くことはないだろう。
 さほど短い付き合いでもない。かといって親しくもない。結局わたしも本音で話していないのだから、彼の本音を望むなど烏滸がましいのだろう。
 わたしが自室で嗚咽を上げていたとき、彼は何をしていただろう。わたしが汚れの落ちた汚れた手を洗っているとき、彼は何をしていただろう。きっと誰よりも結果を出していたに違いない。あの頃から今に至るまでわたしは未熟だ。偽善者の仮面を捨てきれなかった、何の役にも立たないのに。
 彼が優秀だというのは知っていた。妬ましげな声も、憧れる声も聞こえていた。知人とも呼べない同僚に話を振られても「関わりがないから何も思うことはない」と返したのは比較的記憶に新しい。
 本当は一度だけ、たった一度だけ組んだことがある。
 今にして思えば随分昔のことだ。彼が優秀だという噂も立っていない頃なのだから。だというのに、そのときには彼の冷たい目に気付いて、憧憬とともに畏怖を抱いていた。
 夜闇に姿を隠したある一夜。指示に従い結果を残し、それぞれ評価を得た、それだけのこと。
 その後、彼は結果を積み上げていった。住む世界が違うとは思わなかった。同じ穴の狢だ。それでも、違う場所にいるのだと疑わなかった。
 彼とはそれきりのはずだった。


 組織は混乱している。存在が知れてしまったらしい。統率などあったものではない。各々逃げ出していた。罪については承知しているだろう。だからこそ逃走するのだ。
 我々に選択肢がなかった、と言う者もいるという。果たしてどれだけ信用できるのか。そして、我々には本当に選択肢がなかったのか。そのようなことを考えつつ、逃げ延びる計画を立てていた。わたしも例に漏れず、自分がかわいかった。
 そんなときにこの男が現れた。


 わたしは何も言わずに男を見ていた。彼の手に視線を落とす。
「今までは知人と呼べずとも問題ありませんでした」
距離を詰める必要はなかった。指示の範囲内でそれぞれが動いていた。親しくなりすぎた者の死に役目を忘れ始末された者を見た。心などいらなかった、そのはずだった。
「ただ、本当はあなたと話してみたかったのです」
あの夜からだろうか。だとすれば、わたしも同じだ。あなたのことが知りたくなった。目を合わせる。
「明るい道ではありませんから、余計に危険かもしれません。それでも――」
「いきます、あなたと。どこまでも、いつまでも」
男に最後まで言わせず、わたしは手を重ねた。

9/23/2025, 9:19:48 AM

 彼は不思議な体験をしたらしい。しかし、もうほとんど覚えていないと言っていた。翌日からすぐに落ちていくようだった、とも。

 夕方、家の近くの道を歩いていた。彼は帰宅しようとしていたらしい。ある辻で言葉を拾ったという。
「みーつけた」

 気が付くと見知った道ではなかった。橙に染まる空、そして見知らぬ町。人影はなかった。知らぬ商店、知らぬ家。十代も半ばというのに迷子、しかも家の近くでなど笑えないと思ったという。
 ふと何者かとすれ違う。どこから現れたか知れず、すれ違うときにそれに気付いたという。それまでその存在には気付かず、視界に入っていたのかもわからなかった。彼とすれ違ったものは、人ではなかったらしい。具体的にどの部分を見たのか定かでないが、どうにも瞬時に人ではないと判断したとのことだ。
 そして果たして家に帰ることができるか不安になった。しかし声は上げず拳を握りしめる。周囲をそっと見回す。どう見ても知らない場所だった。動くか止まるか。その場でぐるぐる歩くことにしたらしい。
 そうしているうちに元の辻の近くに出た。
 何者かとすれ違った以外は何にも遭遇していないらしい。

 逢魔が時の神隠し。
 彼は、自身の記憶すら疑わしいという。そんなおぼろげな記憶の話だった。



9/21/2025, 11:36:13 AM

 さようなら

 どうか、これからのきみが笑顔でありますように
 もう苦しむことがありませんように


 本当はすぐに会いに行きたいけれど
 きっときみは怒るし悲しむから
 少しだけ待っていて


 また、たくさん話をしようね
 笑い合おうね

9/20/2025, 11:53:40 AM

 最後に顔を合わせたのはいつだっただろうか。

 静かな夜。寝返りをうつ深夜。ため息でさえ大きく響く。雨も降らないと判断するほどの静寂だった。太陽が顔を出すまでにはしばらくかかる。上階であることと部屋の電気も消していることを理由にカーテンを開けている。
 夜が明ける。大きな窓が部屋を明るく染め上げる。浅いまどろみに痛む頭を抑えて起き上がる。休日といえど、あまり遅く起きたくはない。あらかじめ考えていた予定を思い出しながら、ケトルに水を注ぐ。

 今の時間、あなたが仕事をしていることを知っている。仕事中にスマートフォンを見ないことも。サイレントモードにしていて、通知音も鳴らないようにしていると言っていた。
 だから、たった一言メッセージを送る。あなたが見ないことを分かっていて、わたしは紙飛行機に似たアイコンに指を乗せる。吹き出しとともに表示されたのは送信時間のみ。既読の文字はない。
 ほっと息をつく。頭がふわふわしている自覚はある。そういうときに、同じことを繰り返している。自嘲するような笑みに声はない。明るい部屋にはそぐわない。
 当たり障りのない、体調を気遣うメッセージも送る。その吹き出しが表示されたら、最初のメッセージを長押し。送信取消の項目を選択する。
 ごめんね、誤字があったから送り直した。
 最後にそう添えて。


 会いたい、に既読がつくことはない。

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