きみがくれた海。
それが、この貝殻だ。
耳に当てると波の音がするよ。
きみの言ったとおり、耳に当てると音がする。それが、海の波音なのか確かめるすべはない。
海には行ったことがない。この街から海は遠く、そう簡単には行けないのだ。この街には自分のやるべきこともある。
君と海に行きたい。
この貝殻をくれたときのきみの言葉。ずっと忘れていない。
机の上に、いつも見えるところに置いている。そして、行けない言い訳をひとつずつ消していく。
きみと海に行きたい。
同じ気持ちでいる。自分の本音を貝殻にだけ囁く。
積み重なる、積み重なる
あなたの小さな気遣いが
降り積もる、降り積もる
あなたの小さなやさしさが
大きな愛がそこにある
推しはいればいるほどいい。
彼女は言っていた、推しは増えるものだとも。変わることはないのだと。時期によって少し熱量が異なるだけで推しであることに変わりはない。笑顔でそう言っていた。彼女が今よく話す推しのことではなく、以前より推している人の話を振ってみれば、その口は止まることなく話が続くのだから彼女の言い分には納得する他ない。
推しが死んだ。
彼女は暗い顔でそう言った。これを悲壮感漂う、というのだろう。実例を見た。
詳しく話を聞いてみると、あるシリーズの小説に推しているキャラクターがおり、最新刊でそのキャラクターが死んだという。推しが死ぬのははじめてではないし、主人公にとっての保護者的な立場の人物だったので彼の成長のためだろう。そう言いながら彼女の目は潤んでいた。
自分のことではなく、あくまで推しなのにそこまでの熱量向けるのはわからない、という声を聞いたことがある。彼女を見ているとその意見に頷ける部分もある。でも、それ以上に彼女はいきいきとしているから、他者に迷惑をかけなければ何と言われようと気にしないでいいように思う。その声については彼女も知っていたらしく、別の人間だから相容れない価値観もあるよ、と苦笑を見せていた。
推しのことで一喜一憂する彼女は眩しい。人の心に灯火があるとしたら、彼女の心の灯火は煌々と揺れているのだろう。
あなたに会えて嬉しい。
それを理解できなかった。嬉しい、とは一体何なのか。
必要だったのは高度な技術。使える駒であるための素養。あなたのそばにあって、あなたのためになることだけを行う。それだけのはずだった。
あなたがわたしのためにしてくれることが嬉しいの。
何一つ、わからない。自分の行動は、教わったとおりのものだ。決められた時間に決められた行動を取るだけ。あなたの行動によって、決められたパターンの行動を取るだけ。
だから、あなたの言葉に反応することができない。
あなたは少し表情を変える。眉尻が下がっている。これは「あなたが悲しんでいる」ときの行動を取る合図。菓子を用意するか、お茶のみで良いか。このパターンはお茶のみだ。あなたの頭を撫で、少し離れる。お茶を用意して戻ってもあなたの表情は変わらない。選択を間違っただろうか。
わからない。知らないことには対処できない。
いくら教わったとおり正しい行動をとっても、あなたの表情は変わらない。
あなたはずっと悲しんでいる。
大学の講義の間、所謂空きコマ。君と話しながらそれぞれ課題を進めていると鼻腔を擽る知らない香り。
「香水変えた?」
「うん、変えた。……前のとどっちが好き?」
「どちらも好きだけど……」
一度言葉を切って君をちらりと窺い見る。四人掛けのテーブル席の斜め前に座る君。尋ねた声音こそ神妙だったものの特に変わった様子は見られない。
「今の君には、今日の香りが似合うと思うよ」
君は目を瞠って息を詰めた。察したけれど、察したが故に課題に視線を落とす。
「ずるいなあ」
狡いのは君だろう。何も気付かないと思っているのか。君の少し腫れた目元は隠しきれていない。普段この曜日のこの時間は専らひとりで過ごしていて、君と一緒なのは初めてだ。
君が恋人と過ごしていたことを知っている。
君がずっと纏わせていた香りも好きだった。けれど、前に進む君に贈るには相応しくない言葉だろう。
新しい香りを纏ってまた君らしく輝いて。