推しはいればいるほどいい。
彼女は言っていた、推しは増えるものだとも。変わることはないのだと。時期によって少し熱量が異なるだけで推しであることに変わりはない。笑顔でそう言っていた。彼女が今よく話す推しのことではなく、以前より推している人の話を振ってみれば、その口は止まることなく話が続くのだから彼女の言い分には納得する他ない。
推しが死んだ。
彼女は暗い顔でそう言った。これを悲壮感漂う、というのだろう。実例を見た。
詳しく話を聞いてみると、あるシリーズの小説に推しているキャラクターがおり、最新刊でそのキャラクターが死んだという。推しが死ぬのははじめてではないし、主人公にとっての保護者的な立場の人物だったので彼の成長のためだろう。そう言いながら彼女の目は潤んでいた。
自分のことではなく、あくまで推しなのにそこまでの熱量向けるのはわからない、という声を聞いたことがある。彼女を見ているとその意見に頷ける部分もある。でも、それ以上に彼女はいきいきとしているから、他者に迷惑をかけなければ何と言われようと気にしないでいいように思う。その声については彼女も知っていたらしく、別の人間だから相容れない価値観もあるよ、と苦笑を見せていた。
推しのことで一喜一憂する彼女は眩しい。人の心に灯火があるとしたら、彼女の心の灯火は煌々と揺れているのだろう。
あなたに会えて嬉しい。
それを理解できなかった。嬉しい、とは一体何なのか。
必要だったのは高度な技術。使える駒であるための素養。あなたのそばにあって、あなたのためになることだけを行う。それだけのはずだった。
あなたがわたしのためにしてくれることが嬉しいの。
何一つ、わからない。自分の行動は、教わったとおりのものだ。決められた時間に決められた行動を取るだけ。あなたの行動によって、決められたパターンの行動を取るだけ。
だから、あなたの言葉に反応することができない。
あなたは少し表情を変える。眉尻が下がっている。これは「あなたが悲しんでいる」ときの行動を取る合図。菓子を用意するか、お茶のみで良いか。このパターンはお茶のみだ。あなたの頭を撫で、少し離れる。お茶を用意して戻ってもあなたの表情は変わらない。選択を間違っただろうか。
わからない。知らないことには対処できない。
いくら教わったとおり正しい行動をとっても、あなたの表情は変わらない。
あなたはずっと悲しんでいる。
大学の講義の間、所謂空きコマ。君と話しながらそれぞれ課題を進めていると鼻腔を擽る知らない香り。
「香水変えた?」
「うん、変えた。……前のとどっちが好き?」
「どちらも好きだけど……」
一度言葉を切って君をちらりと窺い見る。四人掛けのテーブル席の斜め前に座る君。尋ねた声音こそ神妙だったものの特に変わった様子は見られない。
「今の君には、今日の香りが似合うと思うよ」
君は目を瞠って息を詰めた。察したけれど、察したが故に課題に視線を落とす。
「ずるいなあ」
狡いのは君だろう。何も気付かないと思っているのか。君の少し腫れた目元は隠しきれていない。普段この曜日のこの時間は専らひとりで過ごしていて、君と一緒なのは初めてだ。
君が恋人と過ごしていたことを知っている。
君がずっと纏わせていた香りも好きだった。けれど、前に進む君に贈るには相応しくない言葉だろう。
新しい香りを纏ってまた君らしく輝いて。
今夜はずっと隣にいてよ。
そう言った君の顔を見て、考えることもなく頷いていた。ひとりにしたくなかった。君が消えてしまいそうだった。君の願いだったけれど、むしろ君に願いたかった。
ひとりにしないで。
影を落とした顔に気付かないふりをして、君の手を握る。空いた手では先程まで過去の映画を放送していたテレビを消す。音の消えた室内は、今の自分たちには少し明るすぎる。照明のリモコンに持ち替えて部屋を橙に灯す。
手を繋いでしまうと、どうにも離すのが惜しまれる。手に動きがあったことで離すと思われたのかもしれない。絡め合った指に、手に力が込められる。離す気がないことを示すようにこちらからも力を込めれば、甲を撫でられた。
照明を落としきった部屋。ひとりで寝るには十分だが、ふたりでは少々狭く感じる大きさのベッド。そこでふたり静かに横になる。手は離してしまったが、その代わり抱き合っている。今夜は少し君が小さく見える。
今夜は月が出ていなかったような気がする。街灯が消えてしまえば、途端に真っ暗になってしまうような夜。人の声も聞こえてこない、虫も鳴いていない静かな夜。
どうして君は寂しさを覚えたの?
その問いに答えはないが、そもそも問いかけてもいない。お互いに口を開かずに寄り添う。今の君に必要なのは、そばにいることだけ。自分が隣にいることを感じてもらえればいい。今夜ばかりは言葉ですらも無粋だ。心を繋ぐために言葉を紡ぐのはまた明日からにしよう。今はただ、君のそばにいたい。
君はいつも前以て連絡してくれない。同じマンションに住んでいるから、突然玄関の呼び鈴が鳴る。インターホンのカメラに映るのは案の定君だった。
「今日は何?」
玄関を開け、気怠げに尋ねれば君はいつものように出かけよう、と言う。出掛けるにもそれだけの身支度まではできていない。部屋に招き入れる。
「どこに行くつもり?」
それに君は笑って答えた。答えがないならと君の服を見ながら自分の服を決める。服と鞄、アクセサリーを決めて洗面所に向かった。
身支度を整えて戻れば、君は慣れたように寛いでいる。実際慣れているだろう。いつも当日やってくる。だから君の好むお茶を置いているし、君に本棚見ていいよ、と言っている。君を招けるよう部屋は片付けてある。
君と出掛けるのは嫌いじゃない。家を出てふたりで歩く。よく晴れた日だが暑すぎることもなく快適な気温。湿度も高くない。であれば、屋内で過ごすことはなさそうだ。
「前日までに伝えておこう、とか思わない?」
「出かけたくなるのが当日だから」
「大変不本意ながら用事があるときもあるんだよ」
わかっているよ、と君は笑う。そのときはひとりで出かけるだけのことだと。知っている。
「君みたいにフットワーク軽くないんだ」
「用事がなければ断らないくせによく言う」
確かに君の誘いを断ることはほとんどない。自分の予定がある日を君に伝えているのも事実だ。
「世界は君の知らないことばかりなんだから」
引きこもっているつもりはないが、自分の世界が閉ざされていることには気付いている。そこに希望が見出だせないのにその中に閉じこもっていることも。
だから君は家の中から出してくれる。世界が広いことを教えてくれる。そこまで考えていないかもしれないけれど。
君に甘えている。君が連れ出してくれる現状に甘んじている。それでも、君は何も言わないから、いつも、君を迎える準備と外に出る準備だけしている。