窓に叩きつけられた雨音が意識を覚醒させていく。どうやら雨が降っているらしい。
身支度を終えて家を出る。窓から見ていた景色と変わらず雨が降っている。地面も軒も軽快に雨音を立てている。傘を開く。今日の雨は昼過ぎには止むだろうと、気象予報士が言っていた。そうなれば、この傘は帰りには荷物になってしまう。あるいは、忘れて帰るかもしれない。
予報の通り、夕方を前に雨は止んだ。雲もすっかり少ない。
橙に色付く空。紫から紺へ、暗くなるグラデーションも見せている。夜になろうとしている。
この夜を越えたら、明日という名の今日が来る。昼までの雨のことなど忘れて夕焼けに照らされた道を歩く。家に帰ったら明日を迎える準備をしよう。
明日の空模様は晴れ! 一日中快晴が続くでしょう!
少し浮かれたように心の中で言ってみた。
傘を忘れたことに気付いたのは家に着いたときだった。
合わせ鏡。零時に覗き込んではいけない、丑三つ刻に行ってはいけないと言われている。
たかが迷信。都市伝説。
未来の自分を見ることができる。そう言われて想像する「未来の自分」が二十代や三十代の様子であることも噂の中心が十代の中高生であることを考えれば不思議なことではない。死相なんて想像もしないはずである。ところが、合わせ鏡は未来の自分としてその人物の死相を見せるという。
零時に覗き込むのは正直に言えばまだかわいい方だ。丑三つ刻の合わせ鏡は異界へとつながってしまう。その結果、その異界のもの、この世のものではないものがこちらの世界にやってくる。
異界に興味があったあの子は、丑三つ刻に合わせ鏡を覗き込んだ。
――あなたは誰?
あの子は人が変わったようだった。取り憑かれてしまった。別人と言っても過言ではない。クラスメイトも友だちも親兄弟も、誰も彼もが知らないあの子に困惑する。
あの子はどこにいってしまったのか。確かにあの子の姿かたちをしている。けれど、あの子の笑い方が違う。あの子の好む食べ物が違う。様々な違いが周囲を惑わす。本人にそのつもりはなくとも。
鏡に映るあの子こそ、あの子かもしれない。
あなたを好きだった記憶が頭にこびりついて離れない。もう、あなたと会うことなんてないのに。街ですれ違ってもわたしはあなたに気付けないのに。あなたはきっとわたしのことなど思い出しもしないのに。
あなたを好きだった記憶。
あなたと話したこと。内容をすべては流石に覚えてはいられなかったけれど、あなたと話しているときのわたしの心臓の音。あなたを目で追っていたわたしのこと。
あのとき行動すれば良かった、別の選択肢だとどうだったんだろう。あなたの顔すら朧げなのに、そんなことばかり浮かんでくる。
いまさら意味を持たないことなどわたしも理解している。
いちばん綺麗な恋愛感情だった。
単純に好きだった。それゆえに当時のわたしは幾度となく嫉妬に駆られた。当然、純粋に好きだという気持ちだけではなかった。
ただ、気が付いたら落ちていた恋だった。いいな、と思っていた。そのあと偶然あなたと話すようになった。いつしかわたしはあなたを好きになっていた。好きになろうとしたわけではなかった。あなたと話す子を羨むわたしによって気付かされた。
わたしにとって、純粋な恋で、唯一勝手に生まれた恋心だった。
いつしか心は歪になってしまった。わたしの心は純粋さを失っていた。わたしの心情を、わたしの理性が作り出していた。
わたしの好きは、どこへ行ってしまったのか。それをどこへ追いやってしまったのか。
わたしはそれを取り戻すことができるのだろうか。
だから、今なお、あの頃の純粋な好きの記憶を捨てられずにいる。
あなたのための舞台。私は舞台装置。退場することが定められている。あなたが輝くために在る。
あなたが正義なら私は悪だ。あなたによって退場させられる者。スポットライトが当たるのはあなたへの理不尽を際立たせるため。こちらも輝きを持たねばならない。それが、真っ当でなくとも。そうしなければ、あなたをより強く煌めかせることなどできないのだから。
私の言葉で傷つけばいい。癒やすのは俺の役ではない。私の行動に怒りを持て。あなたの言葉で改めなどしないのだから。
そして、あなたの正義を振りかざせ。ここはあなたのためにある。あなたの正義が絶対だ。
だから俺は自らのために全力で演じる。あなたにとって許しがたい悪役を。
――演じきったそのとき、きっと「それ」を感じられる。
海は空の色と溶け合っている。月が水面を照らし道を作り、道の果ては水平線だ。湿気を孕んだ空気は磯の香りを漂わせながらまとわりつく。明るさとともに賑わいを見せる砂浜も、夜半を過ぎれば熱気を失い波音が響くのみ。
欠けた月は少し頼りなく、星彩あれども拭えない寂寥感。まるで世界にひとり取り残されたかのよう。
波打ち際まで行けば波は誘うかのように足元を濡らす。波と水音の誘うままに月の道の先へ行こうものならいよいよ世界でひとりきり。
果てなき孤独を闇に溶かして、月光に希望を見出して、またたく星を心に留めて。
短夜の中、未だ訪れぬ夜明けを待つ。