君と最後に会った日の記憶はいまでも克明に思い出せる。
60年前と比べた街の風景はかすかな面影だけ残して、ほとんど変わってしまった。
高架下で絞めた首の感触は今でもぬるい。
風が撫でれば花弁が落ちるほど繊細な花は、いつもショーケースの中にいる。
繊細な花は自分が閉じ込められている理由を知っているし、たまにショーケースを開けて水をくれる人が、自分を大切に扱ってくれているということも分かっていた。
彼は時間が来ると、ショーケースの小窓を開けて、水をくれる。
そして、今日の出来事や思ったことを繊細な花に教えてくれる。
繊細な花はその時間が好きだった。
彼の言葉はいつも優しくて、語る世界は彩りに溢れていた。
このまま続けば良いといつも思うのだ。
彼が部屋を出ることが増えた。
明るくなる前に家を出て、暗くなってから帰ってくる。
表情は活き活きとしているように見えた。
一緒にいる時間は減ったけど、繊細な花はそれでも嬉しかった。
彼が楽しそうに話すのを聞いているのが好きだった。
そのうち、彼が帰るのが遅くなった。
前までは家にいる日もあったのに、最近は毎日朝早くから家を出ていく。
表情は沈んで、しおれているように見えた。
繊細な花は彼が心配だった。
彼は相変わらず繊細な花へ水をくれて、話をしてくれた。
だけど、彼の言葉は少しずつ変わっていった。
トゲついて、ザラついて、語る表情も深刻そうで。
繊細な花はそのことが悲しかった。
ある日、彼は帰ってきても、繊細な花に水をやらなかった。
帰ってくるなり、泥のように眠ってしまって、朝が来ると慌てて出ていった。
繊細な花の花弁が一枚、落ちた。
そんな日がいつしか増えていって、ついに繊細な花の花弁は1枚になった。
命が終わりに近づいている自覚はあったけど、枯れたくないとそう思う。
その日、彼はまだ日が高いうちに帰ってきた。
なんだか清々しい顔をしていて、繊細な花も嬉しかった。
彼は繊細な花に語りかけた。
彼がごめんねとしきりに繰り返すから、謝ることなんてないと伝えたかった。
目を合わせてくれたのは久しぶりだった。
彼とたくさん話すことができて、繊細な花は幸せだった。
彼は最後に「ありがとう」と言うと、銀色に光るものを持った。
尖った方を胸に当てて、笑顔を見せた。
昔の彼に戻ったように見えた。
部屋の真ん中に鮮やかな赤が咲いた。
夕焼けが差し込む部屋で、繊細な花は生きる意味を失った。
繊細な花に水をあげる者はもういない。
そうして部屋の真ん中と隅っこで、一人ずつ枯れていった。
送られてきた紫陽花の静脈のような色が綺麗で、暫く見蕩れていた。
添えられたカードには見覚えのある彼女の字。
懐かしい記憶には雨音が伴って、二人で傘の下歩いた景色がふわりと頭に像を結んだ。
これが僕を想った贈り物なのだとしたら、彼女は気づいているのだろう。
早く捨てなくちゃ。
色が変わってしまう前に。
好き嫌いはしちゃダメと教わってきたから、何も愛さないことに決めた。
そのうち愛されたいと思うことすら辞めて、昆虫のように気高く生きてきた。
だから、今更困るんだ。
こんな風に愛を伝えられたところで、僕にはやり方がわからない。
今週10回目になる林田仁花からの告白を断ると、教室中にブーイングが起きた。
イキんなボケチビ、いらねぇならウチがもらうぞ、引き出し糠床にしたろか、などと物騒なワードが飛び交う。
しかし当の林田は平然としたもので「じゃあ一緒に帰ろう」と僕を待っていた。
告白に答えられない理由は明確にあれど、一緒に帰ることを拒む理由はない。
いつもどおりにバッグを持って、昇降口から外に出た。
「なんで、林田は僕に告白してくるの?」
聞くと、不思議そうな表情。
「好きだから」
「どうして好きだと告白したくなるの?」
「付き合いたいからだね」
「どうして僕と付き合いたいの?」
「好きだからだね」
循環してしまったので質問は打ち切る。
学校の傍にある矢代神社の木の枝で、アブラゼミが鳴いていた。
「じゃあどうして、僕が好きなの?」
「ううん、それを答えるのは恥ずかしいな」
「教室で1日2回告白するより?」
「うん、それは私の内面の話だから」
「分からないけど、分かった」
「篠塚くんは人を好きにならないよね」
林田の声色が1mほど沈んだ気がして、肌がピリッと痛んだ。
「分からないんだ」
まだ、と縋るように付け加えた。
いずれはそれが分かるとでも思っているかのように。
「知ってるよ、そうだと思ってた」
「ならどうして告白するんだ。僕は林田さんの気持ちには答えられない」
「それも知ってるよ。私もそうだったし」
真っ直ぐ僕を見る瞳が深くて、吸い込まれそうな心地を覚える。
促すまでもなく、林田さんは続ける。
「私がそれなりにモテることは知ってると思うけど、まともに続いたことはないんだ」
「なんとなくは知ってる」
「味のしない料理を食べてるみたいに無為で、噛むほど自分が嫌いになっていくんだ。篠塚くんとは関わりなかったけど、この前見ててふと思ったんだ。この人も私と同じなんじゃないかって。それから気になってずっと見てた。見る度に確信が深まって、どんどん知りたくなった。そして何してる時もふと思い浮かぶようになって思ったんだ。これ、じゃないかって。初めての感情は楽しくて、大袈裟じゃなく世界が変わって見えたんだ。みんなずるいよね。いっつも世界がこうだなんて。だから、こうして毎日、告白してるわけだけど。私はもしかしたら、フラれ続けることを望んでるのかもしれない。形が変わるのが怖いから、まだこの気持ちを味わっていたいから。自分勝手だって、そりゃ思うけど。だけど醒めたくない。だからお願い、篠塚くん」
「このまま誰も愛さないでいて」
未だに忘れることの出来ない教室の景色は、記憶の中でいつも眩しい。
戻れないと知っていながら、焦がれるのを止められないのは、僕が他に縋れるものを見つけられないでいるからだろう。
窓から差した光がリノリウムに照り返し、反対側の壁を光らせている。
病室には、僕の他に一人だけ。
いつも退屈そうな表情で本を読んでいる。
僕の視線に気づくと、迷惑そうな睨みを返された。
「何読んでるの」
「言っても分からないと思う」
「言ってみないと分からないじゃん」
「シュロックホームズの冒険」
「有名なやつじゃん。コナン・ドイルでしょ?」
「違う、これはパロディ作品だから。シャーロック・ホームズを元ネタにはしてるけど、内容は全然違うんだよ。主人公は結構ダメダメだし」
「本家は本家でなかなかダメなやつじゃない?」
「は?本家は超カッコイイでしょ」
冷えた鋭い声が返る。
「すみませんでした超カッコイイです」
素直に謝っておくと、うむうむと満足気に頷いた。
「本、好きだよね。いつみても読んでる」
「このくらいしかないのよ。ずっとこんな病室にいるから。初めから好きだったわけじゃないわ」
「今は好きなんでしょ?」
「まあね」
彼女がいつからここにいるのか、僕は知らない。
初めて見た時からずっと、何かしらの本を読んでいたと記憶している。
もし、本を読むのが好きでもなかったのなら、読書を好きになってしまったことは、とても悲しいことのように思えた。
もう1年も行けていない教室が、遠い思い出になった僕はそれでもずっと焦がれている。
彼女はどうなんだろう。
いつからそう思って、そう思わなくなったのだろう。
いっそいつまでも届かないのなら、この夕焼けが街ごと燃やしてしまえばいいのに。