こうして見上げるだけで、あの日のことは鮮明に思い出せる。
夢のような出来事だったけど、確かに覚えている。
二人で過ごしたあの時間も。
幾度も交わした歌も。
薬と手紙だけを残して、私のもとから去っていく後ろ姿も。
かぐや姫が月に帰って、10年の月日が流れた。
あの後、私は数ヶ月間、全ての気力を失って、死人のような生活を送っていた。
皆があの日の衝撃から立ち直り、普通の生活に戻っていくのを見るのが嫌だった。
まるであの日々が私だけに見えていた一夜の幻だったかのようで、苦しかった。
ただ、そうしている間にも現実は容赦なく進行する。
私が部屋に篭っているせいで、仕事は溜まり、都も荒れた。
そのことを聞かされた私は、やり取りした手紙や不死の薬を火山に捨てて、ようやく立ち直ることができた。
未練はないつもりだったが、こうして満月の綺麗な夜は未だにものおもいにふけってしまう。
もうすっかり夜は更けており、宮中の廊下には誰の声も聞こえない。
部屋に戻る気にもなれなくて、月明かりだけで薄暗い廊下を歩く。
「宮中の人ですか?」
後ろから、声がしてビクリと震える。
振り向くが、見覚えがない。
こんな人、いただろうか。
「そうだ。君は?」
「私は女官で、一か月前、田舎からここに来たばかりです。あ、急に話しかけちゃってごめんなさい。こんな夜中に見かけたもので」
声を潜めながら、続けざまに話す。
「よいのだ。ところで君はどうして、ここに?」
人差し指で月をさして、こちらを見る。
「今宵は月がとても綺麗で、見に来た次第です」
「そうなのか」
「あなたはどうしてここにいらっしゃったのですか?」
どうして、と言われて考える。
私が知りたいくらいだ。
いくら見つめても、もう手は届かないのに。
「すみません。変なこと聞いちゃったみたいですね」
その子は私を見て困ったように笑った。
そんなに酷い表情だったかな。
「いや、気にしなくていい。それより、まだ戻らなくて大丈夫そうか?」
「はい、まだ」
「じゃあ、ちょっとだけ話を聞いてくれないか。人に聞かせるには退屈な、ただの夢の話なんだけど」
不思議そうに首を傾げていたが、やがて頷いた。
「聞かせてください」
そうして、私は語り出す。
月はただそこにいて、私たちを照らしていた。
中学の時分に絆を永遠と嘯いた女の瞳が私を見下ろしていることに、今更ながら皮肉な因果を感じていた。
そこまで仲良くならなければ、こんな結末は避けられただろうけど、当時の私にそんなこと、予測ができるわけもなくて。
どうしてこうなってしまったのか。
逆光で見えづらい瑞稀の表情を見上げながら、他人事みたいに考えていた。
瑞稀と出会ったのは中学2年の冬。
6人だけの寂れた塾に新しく入ってきた。
それまで女子は私だけだったので、すぐに話しかけ、仲良くなった。
3年に上がった頃には、2人で遊ぶことが増えていた。
校区は別だったので、駅で待ち合わせて、色々なところに行った。
卒業後、私は県外の高校に進学した。
祖母の家が近くにあったので、そこに住んでいた。
高校でも中学の頃から続けていたバドミントン部に入った。
沢山友達もできたので、高校に入ってからは徐々に瑞稀とは疎遠になった。
久しぶりに連絡をとったのは、高校2年の秋。
「久しぶりに遊びに行かない?」と連絡が来た。
会いたい気持ちがないわけではなかったが、その時は部活のキャプテンを引き継いだばかりで忙しい時期だった。
それに初めての恋人もできていて、正直、瑞稀と遊ぶよりは恋人とデートに行く方が楽しそうに思えた。
その後も、何度か誘いがあったが、何かしら理由をつけて断っていたら、そのうち連絡は来なくなった。
瑞稀は勉強もできるし、結構明るい子だ。
きっと向こうでも楽しくやっているだろうと勝手に思っていた。
その後、私は大学に進学し、税理士を目指して、忙しい日々を過ごすうちに瑞稀のことはすっかり記憶から消えていた。
思い出したのは地元に就職して2ヶ月後。
新しくできた恋人の高校のクラスが3年間、瑞稀と同じだと聞いた時。
そこで聞いた瑞稀の話は想像と大きく違っていて、私は愕然とした。
1年の頃は和やかに過ごせていたらしい。
吹奏楽部に入り、同じ部活の子達と上手くやっていたようだ。
状況が変わったのは2年の頃。
クラス替えで仲良くなった人が私の知り合いだったらしい。
名字を聞けば、すぐに浮かんだ。
中学で同じ部活だった子の名前だった。
あまり喋ったことはなかったので、さしたる印象はないが。
瑞稀はその子にいじめられていたのだと、彼は言った。
9月の下旬に差し掛かり、瑞稀が学校に来なくなり、先生がそのことをHRで発表してようやく知ったらしい。
友達を悪く言われて、それを咎めたことがきっかけらしい。
同じクラスにいて、気づかなかったのか、止められなかったのか、と責める言葉が喉まで出かけて、飲み込んだ。
自分もそうじゃないか。
ましてや私は瑞稀と1年以上友達をやっていたのに。
瑞稀と話さなきゃ。
散歩してくる、と外に出て、LINEを開く。
まだアカウントはそのままだろうか。
メッセージは私の「予定合ったら、また今度ね」という文で終わっていた。
文字を入力して、消して、入力して、消してを繰り返す。
今更何を言えばいいんだ。
今の状況も私は知らない。
苦しんでるかもしれないし、憎んでいるかもしれない。
案外覚えていないのかもしれない。
最適な言葉が見つからず、何度も打ち直す。
打って、消して、考えて、打って、消して、考えて。
いつの間にか公園まで来ていた。
通っていた塾のすぐ近く。
ここでブランコに乗って遊んでいたな、と思い出す。
誰もいないのを確認して、ブランコに座る。
夕焼けに背中が焦がされているような気がした。
薄いシャツの長袖を捲る。
瑞稀は知っているのだろうか。
私がこの街に戻ってきたことを。
私はインスタにも載せているから、見てれば知ってるだろうけど。
瑞稀からフォローされた覚えはない。
申し訳程度に足を漕いで、前に伸びる影を追う。
すると、何者かの影が私の足の影を飲み込んだ。
「見つけた」
囁く声はひんやりと冷たい。
直後、肩の深くを刺す感触。
声の主には覚えがあった。
身体からずぶりと刃物を抜かれて、そのまま前方に倒れ込んだ。
痛い、痛い、痛い、熱い。
「久しぶり、由乃ちゃん」
悶絶しながらも、声の主を確認する。
あの頃のまま、歳を重ねた。
一言で説明すると、そんな風貌だった。
前髪は分厚く、でも短い。
襟足は揃っていて、サイドも長さが均等。
ニキビが多く、化粧もしていないようだ。
それでいて、前より遥かに太っている。
その姿だけで、瑞稀が過ごした時間がどのようなものだったかが、想像できた。
そして私のことをどう思っていたのかも。
「知ってたんでしょう?私のこと。それでも無視してたんだよねぇ!?」
叫ぶ瑞稀の声は裏返っていた。
違う、聞いてと言おうとするが、出るのは言葉にならない呻き声ばかり。
ただ、声が出ていたとしても、きっと届かなかっただろう。
逆光に薄く見えた双眸は、私の目と明らかに合っていなかった。
きっと瑞稀に見えているのは、私じゃなくて自分の過去だ。
どうしてこうなってしまったのか。
答えは多分、私のせいだ。
プレゼントは値段じゃなくて、どれだけ想ってくれているのか。
それが伝わるものがいい、とデートの時に言っていたのを覚えている。
準備にかけた時間や手間。
自分のことを考えてくれたという事実が何より嬉しいのだと彼女は言った。
その点でいうなら、誰にも負ける気がしないな、と僕は思う。
なんせこの計画に僕は5年もかけたんだから。
手作りとかってどうなの、という質問には、最高、と答えていたはず。
結婚してから数年が経って、前より物憂げな表情が増えた。
欲しいものを聞かれた時、自分の時間、と苦笑いしていた。
旦那と子供への不満が尽きないようで、友達に話していた。
それを知って、僕はプレゼントを決めた。
計画には5年の歳月を費やして、君の欲しいものを探って、オマケにこいつは手作りだ。
君を喜ばせるための条件はあらかた満たした。
君は誰かといることが多いから、チャンスがなくて苦労したよ。
買い出しで少し家を空けるこの瞬間。
君は帰れば気づくはずだ。
煩わしいと思っていたものが、あらかたなくなっていることに。
これが僕から愛する君へのプレゼントです。
誕生日おめでとう。
どれだけ喰うなと言われても、腹が減るのは仕方ない。
父親は目の前で、流れ弾で死んだ。
後から見つけて、衝撃を受けた。
芽生えた暗い要望に手を伸ばした。
この衝動になんて名前を付けようか。
ジェイドは奥歯を噛み締めて、袖で口周りを拭った。
「ジェイド、アレ見てよ。綺麗」
白い指先が示す方向には、黄色い正円。
「ホントだ。ベランダからでもこんなに見えるんだね」
「ねー」
何故か自慢げな彼女。
月よりも、鮮やかな首の白に視線を奪われる。
ダメだダメだ。
頭を振って意識を正す。
「ジェイド?」
覗き込まれているのに気づいて、背筋が痺れる錯覚が生まれた。
急いで顔を背ける。
「ごめん、ちょっと飲みすぎたのかも」
「たしかに結構飲んでたもんね。じゃあ部屋戻ろうか」
そうだね、と部屋に戻る。
彼女はベッドに仰向けに寝転がる。
僕に両手を広げて伸ばした。
何かが切れたような音が、聞こえた。
美味しいものは好きだけど、食べたらなくなってしまう。
そのことが悲しい。
窓から月光が差していた。
月光が照らす、赤色を頬張った。
止まらない涙を袖で拭って、食べ続けた。
腹は満ちていくのに、飢えて仕方がなかった。
それなりに混んでいたからだろう。
私がカバンを置いていったことには、誰も気づかなかったようだ。
カバンに入る大きさにするのは苦労したが、これで残りのパーツは一つ。
「さっむー。さすがに真冬にニットだけはキツい」
家に帰るとロングコートに手袋を付けて、用意していたカバンを持った。
先程と違う駅に歩いて向かう。
少し遠いが、やむを得ない。
相当歩いたはずだが、疲れている様子を見せる訳にはいかない。
駅のトイレで汗が引くのを待って、電車に乗った。
人は疎らだが、一車両に5.6人くらいいるようだった。
三両編成の小さな電車で、この先は7つほど駅がある。
今でこそ人は乗っているが、この先はどんどん田舎になっていき、後半は誰も乗っていないことが多い。
予想通り、一駅、二駅と通過していくうちに、車内の人はどんどん減っていった。
そして三つ目の駅を通過した時、車内に残っているのは私だけになった。
「次は、鈴城駅、鈴城駅」
ボソボソと呟くようなアナウンスが聞こえる。
そろそろお別れの時間だ。
「じゃあね」
私は膝の上のカバンを網棚の上に乗せて、駅を降りた。
私は電車で来た道を迂回する形で歩いて戻り出す。
カバンの中に入った首は電車に揺られて、私から離れていく。
まだ行ったこともない遠くの街へ。
手袋とコートは戻りがてら、橋の下に捨てておいた。
ニットだけになった体を擦りながら、のんびり歩いて、自宅を目指す。
一陣の風がひゅるりと吹いて、枯葉が舞っていった。
枯葉は地面に落ちる様子もなく、あっという間に見えないところまで飛んで行った。