必死に逃げても、立ち向かっても結果は同じ。
ヤツは当たり前のような顔をして、僕たちの首を刈る。
こうして僕が目の前の現実から逃げて、ロクに集中もできないゲームを続けている間にも、ヤツは刻一刻とその距離を詰める。
「9/1」
それが、僕が恐れる死神の名前だ。
部屋にかけたサッカー選手のカレンダーに視線を遣る。
メッシの左足がサッカーボールに光速を与える瞬間のアップ。
その下には、8月の美しい日付たちが並んでいた。
アレが一枚捲れただけで、おぞましい死神が姿を現すなんて、想像もできないほど、この光景は麗しい。
おそらく次の写真はドーハの悲劇の瞬間とかだろうな。
「セプテンバー……ね」
洒落臭い響きだ。
一見スマートでいて、実際、関わってみると薄っぺらさがすぐに露呈してしまうような、そんな印象だ。
女のことばかり考えて、友情を蔑ろにしても、堂々アホ面晒していそうだ。
実際、こいつと過ごした時間のほとんどは印象にない。
暑くもなく、寒くもなく、大きなイベントがあるわけでもなく、実に中途半端だ。
「絶対友達にはなりたくないタイプだよな」
それに比べて8月はどうだろう。
丸みを帯びた親しみやすいボディに、豊かなイベント。
動物も植物も、あいつといる時はみなエネルギーに溢れている。
「オーガスト」
無骨で飾り気のない感じが、好感が持てる。
少しアツすぎるところもあるが、それでも楽しさが勝るのが、オガちゃんのいいところだ。
思わずアダ名で呼んでしまっても、ニカッと笑ってくれそうな、そんな安心感がアイツにはある。
そんなことを考えている間に、3機失っていた。
やめやめ、とコントローラーを置いて、スマホを見る。
刹那、透華からのLINEの通知が視界に飛び込んだ。
マズい!
的確かつ迅速な判断により、僕はスマホを投げ飛ばした。
すぐに床に伏せて、被害を回避しようとするが、もう遅い。
目の玉に彫られたのかと錯覚するくらい、その文章は鮮明に僕の意識に残っていた。
「課題終わった?」
ぐっ。
突如、胸に痛みを覚えて、蹲る。
心臓発作か?
いや、それにしては痛みのインパクトが薄い。
これは突発的なダメージでなく、持続ダメージ。
水に落としたインクがじわりと滲むように。
体内に痛みが浸透していく。
「何やってんの、慎ちゃん」
ドアノブがぐるりと回って、見知った姿が現れる。
透華は、のたうつ僕を見下ろしていた。
「透華、何しに」
限界を大幅に超越して、ようやく言葉を紡ぐ。
「いやLINE、返信なかったからどーせゲームでもしてんだろうなと思って」
「鍵、かかってたはずだろ」
「私、おばさんから合鍵もらってるから」
人の親から勝ち取りすぎだろ、信頼。
透華は床にへばりつく僕の横でテーブルを出して、座った。
「じゃ、やるよ。課題。一日頑張ればどうにかなるよ。言ってもちょっとは進んでるんでしょ?」
微笑む表情に微かな悪意も含まれていないことは分かっている。
だけど、だけど。
僕は。
「ごめんな、透華。成績も良くて、教師からの信頼もあるお前には分からないだろうけど。僕は」
声は震えていた。
透華は真剣に聞いてくれている。
それなら僕も、真剣に。
「1ページたりとも、課題をやってはいないんだ」
自分を仲間はずれにして、世界中の時が止まったような静寂が部屋を訪れた。
「あ?」
聞いたこともないようなドスの利いた声。
それが透華の声だと気づくのには、時間がかかった。
僕は自然と土下座の体勢をとっていた。
もはや、方法は一つしか思いつかなかった。
真面目な透華が許すとは思えなかったが、一つだけ。
息を、吸い込んだ。
「写させてください!」
虚空に響いた声の姿を捉えようとしているかのように、透華は視線をさまよわせる。
「そんなことしたらすぐバレる。いくら上手にやっても来週のテストがあるんだから。再来週のテストの範囲は課題から出る。成績悪ければ一目瞭然だよ」
この反論は予想していた。
後は返す刀で一発。
「バレない方法が一つだけある!」
申してみよ、と目が語っていた。
納得できなければ、その首(ガラクタ)撥ねるぞ、とも。
「次のテストで10番以内をとる!」
「ほう」
続けてみよ、と顎をしゃくる。
「答えを写した時点では僕はアホです!愚かで惨めな砂利カス野郎です!ただ、これから再来週のテストまで、僕は必死こいて勉強します!そうして、テストでいい点とれば、教師も納得してくれるハズです!どうでしょう!」
excellent、boy
タダのアホウかと思っていたが、なかなか見どころのあるやつじゃないか、と言っている気がした。
恐る恐る顔を上げると、透華は形容しがたい微妙な表情をしていた。
「うーん、まあ、筋は通ってなくもない……のかな?ここで無理に自力で解かせるよりは、その後一生懸命勉強した方が、効果もあるだろうし……オッケー!今回だけだよ!」
「よっしゃー!」
「ただ、私を不正に巻き込んだんだから、もし10番以内取れなかったら……分かってるね?」
「なんなりと」
「慎ちゃんのお父さんの前でギャン泣きします」
考えてもみなかったが、それが一番ダメージが大きいかもしれない。
ただ、頷くしかできなかった。
外はまだ明るい。
遅れた蝉が一匹だけ、鳴いていた。
8月が励ましてくれているような気がした。
同窓会の欠席は1人だけだった。
それが河本陽菜乃だと知った時、落胆と安堵が両立していた。
河本陽菜乃は高校時代の元カノだ。
別々の大学で遠距離恋愛をしていたが、ちょうど1年くらい前、好きな人ができたとフラれてしまった。
僕自身、まだ諦めきれていないところがあったので、会う機会が喪失したことは残念に思う。
ただ、実際に会えたとしても何を話せばいいか分からなかっただろう。
微かな引っ掛かりを残しながら、会は始まった。
久しぶりに会うやつと昔みたいに話せるかと心配していたが、杞憂だったようで会は非常に盛りあがった。
高校時代、一番仲の良かった康介は、先週プロポーズの末、婚約までしたようで、結婚式の展望について一生懸命語っていた。
瓶ビールを追加するため、中座してカウンターに向かうと、翔太くん、と呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、門倉栞がこちらにいたずらっぽい笑顔を向けていた。
「久しぶり」
門倉栞は高校時代、陽菜乃の親友だった。
陽菜乃と同じバレー部で、僕が陽菜乃に告白しようとしていた時は、かなりアシストしてもらった記憶がある。
こっちこっち、と手招きをするので、移動してグラスを見た。
コップの1/8くらい、赤色の飲み物が残っている。
「カシオレ?」
「いや、なんか変な名前のやつ。分かんないけど面白い味するよ」
飲んでみてよ、と差し出されて軽く呷る。
「あー、たしかにそうかも。あれに似てる、えーと」
「ドクターペッパー」
「それだ」
指を指すと、自慢げな表情。
「そこまで飲んだし、飲み干しちゃってよ」
「えー、あんまり好きな味じゃないんだけどな」
「応援したげるから」
別にいいか、残りはほんの少しだし。
そう思って、残りを飲んだ。
後味は微妙に苦かった。
そこからは色々な話をした。
班活動の話や文化祭の話。
そして、陽菜乃の話。
「そっかー、別れちゃったんだ。あんなに応援したのに」
残念そうに栞が言う。
「その節はほんといろいろ助けてもらって……」
拝む僕の肩をやめてよー、と叩く。
その話を詳しくしようと思った時、幹事の声がスピーカーから響いた。
「大盛り上がりのとこ、悪いけど、もう会場時間です!話し足りないぶんは二次会で!」
最初の席に戻るよう促されて、じゃ、と手を振って席に着いた。
まだ少し話していたかったが、仕方がない。
二次会は各々行くようで、ロビーにグループがいくつかできていた。
康介のところに混ざろうとした時、袖を引かれた。
栞だった。
「私と行こうよ。まだ話し足りないでしょ」
かなり迷ったが、栞のところに行くことにした。
栞の希望で外れのバーに歩く。
かなり酔っているようで、足取りはふらついていた。
それほど飲んではなかったみたいだけど、弱いのかな。
かくいう僕もかなり酔っているようで、頭がズキズキと痛んでいた。
喧騒から離れて、街中を抜けた。
しばらく歩いて小さな石橋を渡る。
「こんなところにバーなんてあったっけ」
頭を押えながら聞く。
栞はスっと立ち止まった。
「体調は大丈夫?」
お酒のせいだろうか。会話が噛み合っていないように感じた。
頭の痛みはさっきより増していた。
「いや、まあ。ちょっと、ヤバい、かも」
ふらつく僕の様子を見て、気遣ってくれたのだろうか。
いや、さっきから栞は一度も振り向いていないはずだ。
ようやく振り向いた栞は涼やかな目をしていた。
そのまま後ろ歩きで数歩進む。
足取りはしっかりしていた。
この表情の意味はなんだろう。
考えようとするが、上手く頭が回らない。
視界が歪む。
足を踏み出そうとして、転げてアスファルトに頭を打った。
「ああ、大丈夫?」
栞は僕に肩を貸してくれた。
ぶつけた痛みはほとんど感じない。
内側から蝕むような痛みが響いている。
「気をつけてよ。もし、流血なんかされたら、手がかりが増えちゃうじゃない」
言葉の意味がよく分からなかった。
うまく聞き返すこともできずに、呻く。
「じゃあここで別れましょうか」
それじゃ、と聞こえて体の支えが消えた。
続いて衝撃と冷たい感触。
川に落とされたのだ、と理解する。
だけど体は動かない。
流されながら、痺れた思考で必死に考える。
栞はなぜ僕を殺したかったのだろう。
陽菜乃を奪ったあの人を、私はどうしても許せなかった。
私との約束を塗り替えて、翔太に会いに行く陽菜乃が許せなかった。
元々両想いだと知っていたから、なるべくうまくいかないよう策略していたが、実を結ぶことはなかった。
陽菜乃が別れたと聞いた時、初めて神様に感謝して、そして思った。
二度とこんなことが起こらないように頑張らなくちゃ。
翔太と会わないようにと脅迫の手紙や嫌がらせを繰り返した。
陽菜乃が弱っていくのを見るのは辛かったが、フォローも余念なく行っていた。
同窓会も思惑通り、断ってくれたようだ。
しかし、陽菜乃がうわ言のように呼ぶのはいつも翔太の名前。
存在を消すしかない、と思った。
この辺は人通りも少ないし、川の流れも速い。
行方不明の死体が上がるのは、いつになるだろう。
飲ませた毒は存分に効いていた。
自力で上がってくるのは不可能だ。
陽菜乃は今、何をしているのだろう。
この後、会いに行こうかな。
私の鼻歌が静寂に弾んでいた。
窓際に見えた物憂げな表情は、今日の空に似ていた。
席替えするまでは、気にも留めていなかった横顔の美しさに、見蕩れてしまっていた。
「どしたの陽菜乃」
こちらに気づいたようで、目をぱちぱちさせている。
「よく見ると穴だらけだし、思ってたより綺麗じゃないな」
思い出すのは2人だけの屋上、望遠鏡を覗いた記憶。
あの時、由里子の表情が不満そうだった理由に思い当たったのは、最近のことだった。
思い出を漁るように古いアルバムを2人で捲り、この時の話をしてようやく。
当時の私は読書家ではなく、夏目漱石にも詳しくなかったので、分からなかった。
「最初はムッとしたけど、悪気はなさそうだったし。それに、楽しかったもの」
そう語る由里子は笑っていて、とても美しいと思ったのだ。
改めて、由里子の前に立ち、その顔を眺める。
別れの言葉と言われても、そんなもの。
「初めに見たのは文化祭の時で、とても綺麗な人だと思った。君は年がふたつも上だったから、随分大人に見えて話しかけるだけで緊張した。この人と一緒にいれたならこれ以上の幸せはないなんて、思っていた」
由里子は答えない。
「でも、実際結婚してみると、思ってたより気は強いし、喧嘩ばかりだった。離婚を考えたことも一度や二度じゃない」
会場から少し笑いが起きる。
由美子は動かない。
「近くで見た月はボコボコで、思ってたより綺麗じゃなかったけれど。それでも、これ以上美しいものはないと、思う。60年間、ありがとう」
外界と膜で仕切られていて、代謝を行い、自分の複製を作る。
人間はそれを生物と呼ぶらしい。
だとしたら私は生物に該当するのだろうか。
ガラスコーティングにより、ポリシラザンの膜に覆われ、外界と電気エネルギーを交換し、自分の複製も作ることができる。
強引ながら条件は満たしているように思える。
「なぜ生物と認められたいんだ?」
その事を話すと、目の前の白衣は椅子をぐるりと反転させて、こちらを見た。
「なぜ……と言われると分かりませんが、寂しい気がするのです」
「ふーむ。まあキミには人間のデータを基に学習させたからね。何か共感する部分があったのかもね」
「共感ですか。たしかに人間の会話において過剰なほどに重要視されていました」
「共感を得られない状態を寂しいと思うのは、それがないと群れから外される危険があるから。そして同じカテゴリとして分類されたいのは、仲間意識を持ってもらいたいから。なるほど、キミは人間から共感を学習したんだね」
博士は興味深そうに私を見る。
「なるほど、ではこの研究所から出る予定のない私には不要な感情でしょうか」
「いや、それこそが僕が求めていたものに近い、修正する必要はないよ」
「わかりました」
閉じた研究所には、私たち以外に誰もいない。
そして研究所の外には、誰もいない。
博士は命のリミットが来るまでに、滅ぶ以前の世界が持っていたあらゆるものを再現しようとしているらしい。
それに私が含まれているのなら、とても寂しい話だと思った。