「また違うよ」
先生はいつも通り、原稿の束を突っ返してきた。
「『くもり』は『曇り』と書く。自信の無い漢字はひらきなさい」
前に『わかる』を『分かる』と書いたら、
『「分かる」は分かたれるものに使う。理解の意味で使う漢字じゃあないよ』
それに『気使い』と書いたら、
『気をつかうのは「気遣い」。まわりの誤解に引っ張られない』
と、まあとにかく、変換ミスに逐一口出ししてくる。
肝心の中身については、「そのうち芽が出る」ばかりで、具体的な感想や指導をくれたことはほとんど無い。
ため息ひとつ、つくと。
「でも」
ばららっ、と。
紙束をめくりながら先生は言った。
「今回の話は気に入った。もっとブラッシュアップすれば、プロで通るだろうね」
ああー、もう。
たまのそういう言葉が、わたしの心の雲を吹き飛ばすんだから。
2025/03/23 雲り
そういう思い出がある人生なら良かったんだけどね。
おあいにくさま。
施設育ちの高卒就職、生き残るのに必死で働いて。
気づいたら周りの友人はみんな結婚して子どももいて。
独りで歳を取っていた。
後悔はしてないよ。
親を憎んでもいないよ。
周りは……時々羨むけど。
これが自分の選んだ道。
戻りたくても戻れない。
だけど、自分が最期を迎えるときに見守っていて欲しくて。
犬を飼った。
散歩をすると、こちらに速度を合わせてくれる、賢い君。
君と一緒に同じ景色を見て、一緒に老いてゆこう。
2025/03/21 君と見た景色
地下水路を走る靴音が、嫌味なまでに響き渡る。
まるで見つけてくれと言わんばかりに。
「私に、構わないで。先に、行って」
足をもつれさせ、息を切らせながら彼女が言う。
到底聞き届けるつもりは無い。
やっと、やっと取り戻したんだ。あいつらの手から。
彼女を奪われた時に負った深傷が癒えるまで、煮えたぎった復讐心を育てて。
どれだけ彼女が俺の中で大きい存在になっていたかを、思い知った。
もう二度と、繋いだ手を離さない。
もうこれ以上、何もあいつらに奪わせない。
「 ! !」
俺たちの名を呼ぶ仲間の声が聞こえる。
武器を手にした仲間たちが、水路の向こうから駆けてくる。
「行け!」
彼らは俺たちの脇をすり抜けて、追手に立ち向かってゆく。
最初は互いに信用ならなかった相手が、今はとても頼もしい。
俺たちは、手を繋いで走って。
手を取り合って、戦える。
今なら、それを信じられる。
2025/03/20 手を繋いで
従兄はよく失くしものをするひとだった。
鉛筆や消しゴムなら可愛いもので、小学生のうちに、二回ランドセルを失くした。
制服の上着も失くした。
定期券も失くした。
卒論の資料も失くした。
会社員になって、社用パソコンも失くしたせいで、このコロナ禍に、「おまえは在宅勤務をするな」と完全出社を言い渡された。
「どこ? どこどこどこ?」
何回玄関の鍵を替えたか、覚えていない。
しかも本人に反省の色が無いものだから、なんでこのひとと結婚したんだっけ、と我ながら呆れたものだ。
ある晩、帰りが遅いのを待っていたら、電話がかかってきた。
『みやちゃん、今、どこ?』
開口一番、心配させてと怒鳴ってやろうとしたけれど、なんだかひどく力の無い弱々しい声だから、不安な予感が過って、黙り込んでしまった。
『ここ、どこかわからなくてさ。記憶力まで失くしちゃったみたい』
なに馬鹿なこと言ってるの。迎えに行くから、と言っても。
『無理みたい。帰れないみたい』
彼は落胆に満ちた声で。
『でも、おれ、諦めないから。必ず思い出して、みやちゃんのところに帰るから』
そこで電話は切れた。
翌朝、彼は帰宅しなかったどころか、出社もせず。
その日は帰らず。
次の日も、次の日も。月が替わっても。
警察に行方不明者の届け出をしても。
彼は自分自身を失くしものにしてしまった。
泣いてなんかいられない。一人で生きていかないと。
そう決意した矢先に、体調に変化があって、産婦人科に行ったら。
「男の子ですね」
ああ、彼はわたしのところにちゃんと帰ってきたんだ。
どこ? って、神様にうちの場所を訊いたのかな。
2025/03/19 どこ?
子供の頃見ていたアニメのヒロインが、二十年経った新作で言った。
愛の反対は無関心、と。
嫌い、じゃないんだ。
じゃあ、嫌いの反対は好き?
でも、最近の世間を見ていると、もっと悪意に満ち溢れている気がする。
大好きの反対は、心から憎い、くらいには。
2025/03/18 大好き