もうどうにもならなくて、全部が上手くいかなくて、毎日泣いていたあの頃。
あなたと二人、夜の街をヘンゼルとグレーテルみたいにさまよった。
わたしの赤い目元に、同じくらい真っ赤な目をしたあなたがキスをして囁く。
「逃げちゃおうよ、二人で」
結局、中途半端に臆病なわたしは何も言えなかった。
あの時あなたがどんな顔をしていたかはもう思い出せない。
初夏の風が前髪を揺らしていた。
耳を澄ますと今でも聞こえてくる気がする。
あの日のわたしたちの静かな笑い声。
世界に二人きりだった、遠いあの頃。
「二人だけの秘密だよ」
チェシャ猫めいた笑顔であいつは囁いた。
真っ黒な瞳が僕を飲み込もうとしている。
「ああ、気分がいいな。君の秘密をぼくだけが知ってるなんて。ぼくだけが。──あいつは知らないんだ」
じっと黙る僕を無視して、大きく手を広げたあいつが喋り続ける。
あいつにとっても僕にとっても都合が悪い秘密を、あいつは楽しんでいる。
過ちは無かったことにはできないが、僕は心底後悔していた。
「おまえ、絶対あの人に言うなよ」
悔しくて悔しくて、僕は食いしばった歯の隙間から言葉を押し出した。
念を押さずにはいられなかった。
「言わないさ。だって、せっかくの二人だけの秘密なんだから」
またチェシャ猫は笑って、強張った僕の体を抱きしめた。
背中に食い込む爪の感触を、僕は受け入れて目を閉じた。
きっと、これが罰なのだろう。
目の前で弾けるカラフルな光。
わたしたち、まるで一つの生き物みたい。
あなたが触れてるのか、わたしが触れてるのか。
嬉しくて笑う声もあなたが飲み込むから。
あなたの中でわたしがこだまするの。
蛇は黄色い眼をしていた。
りんごは真っ赤だった。
ちっともおかしいと思わずに、僕は知恵の実を齧った。
僕の罪と無知の証は、ここに刻まれている。
何かを飲み込むたびに、りんごが上下して主張する。
僕が楽園にいた頃、全ては調和していた。
誰がりんごを断れる?
誰が蛇の眼を潰せる?
僕の眼は何色をしているだろう。
君にりんごを差し出す僕の眼は。
全てを捨てて、あなたを選んだ。
それがたとえ間違いだったとしても、僕は僕の心に背くことができなかった。
何度も何度も、あなたの夢をみる。
僕に呼びかけるあなたの、その絹のような声が、僕の心を絡め取って離さない。
きっと僕にも、悪魔の角が生えている。
あなたと揃いの黒い角。
後悔しているかい。
あなたは笑っていた。
ええ、もちろん。
僕も笑っていた。
間違えて、その次も間違えて、あなたの望む結末に辿り着いた。
せめて僕を連れて行って。
何も感じない世界まで。