あなたの脈をたどって、ここまでやってきた。
心と心を繋いだ糸が切れてしまわないように、そっと絨毯を踏む。
あなたの心のいちばん奥にある部屋の扉は閉じているけれど、すでに鍵は手の中にある。
真っ暗な部屋の中で、わたしは迷わない。
遅かったね。
なるべく早く来たつもりよ。
触れ合う指先から溶けてゆく。
鼓動を重ねて、今二人は一つの生き物になった。
あなたが何でもないフリをして撃ち抜いた僕の左肩が、今年の冬もしくしく痛む。
いっそ心臓に当ててくれたらよかったのに。
あの日僕が取り落としたナイフは、きっとまだあなたの家に転がっている。
痛みよりも強く、苦しみよりも長く、刻まれたあなたの印は癒えない。
さよならと言えないままで、微笑みだけ遺してあなたは去った。
僕が追いかけることを疑いもしないで。
許しと裏切りと愛は同じものだと、僕らは知っている。
--忘れないでね。
「忘れないさ」
--絶対よ。
「当たり前だろ」
頭によぎる、暖かい微笑みは。
あれは、誰だったろうか。
何を忘れてはいけなかったのか。
格子付きの窓からそよ風。
白い部屋には慎ましい花束。
時折訪ねてくる、知らない人びと。
それから、指に合わなくなったプラチナ。
彼は顔を上げて、青空を見た。
懐かしい気配がそこにあるような気がして。
全て忘れてしまった自分だが、ふっと色々な記憶が蘇ることがある。
余りに断片的なそれらは、失われた過去を埋めるには到底足りなかったが。
また、そよ風が耳を撫ぜていく。
何か温かい物が頬を流れ落ちる。
彼は濡れる頬に手を当てた。
それが何かはわからなかった。
それすらも、忘れてしまった。
白い部屋のベッドの上で彼は、今日もたくさんの「わからないこと」と、不思議な哀しみを抱えて途方に暮れている。
ふたり手を繋いで春の花畑を歩くの。
太陽が祝福するみたいに日差しを振りまいて、あなたの髪にきらきら反射する。
わたしは幸せで、あなたも幸せなの。
怖いことなんて何もなくて、すべて満たされたふたりだけがいるの。
それからあなたが私を優しく抱きしめて、わたしは暖かいあなたの頬にキスをするの。
ねえ、すてきでしょう。
雪のような白いシーツの海に埋もれる君は、まるで春の訪れを待つ蕾だ。
君が囁く憧れは幸福の色をして、窓の外の寒々しい冬空に柔らかな温度を与える。
ねえ、あなた。
春が来たらきっと、花畑に行きましょう。
約束よ。
微笑んで、君は目を閉じた。
静かな、本当に静かな寝息が聞こえる。
僕は君の手を握ってやった。
せめて夢の中で、僕と花畑を歩いていてほしい。
幸せな夢が君の体に命を呼び戻してくれますように。
迫る喪失から君を守ってくれますように。
約束だよ。
僕は眠る君にそっと囁いた。
ありがとう、ごめんね。
ごめんね、のところだけ頭の中で呟いた。
きっともっともっと素敵な人が君の人生に現れる。
わたしのことは、なるべく早く忘れてくれていいよ。
さよならの代わりに笑顔の記憶をあげる。
だから、ごめんね。
君はなんにも知らないままでいい。
たとえわたしの最後の君の思い出が、後ろ姿だとしても。