--忘れないでね。
「忘れないさ」
--絶対よ。
「当たり前だろ」
頭によぎる、暖かい微笑みは。
あれは、誰だったろうか。
何を忘れてはいけなかったのか。
格子付きの窓からそよ風。
白い部屋には慎ましい花束。
時折訪ねてくる、知らない人びと。
それから、指に合わなくなったプラチナ。
彼は顔を上げて、青空を見た。
懐かしい気配がそこにあるような気がして。
全て忘れてしまった自分だが、ふっと色々な記憶が蘇ることがある。
余りに断片的なそれらは、失われた過去を埋めるには到底足りなかったが。
また、そよ風が耳を撫ぜていく。
何か温かい物が頬を流れ落ちる。
彼は濡れる頬に手を当てた。
それが何かはわからなかった。
それすらも、忘れてしまった。
白い部屋のベッドの上で彼は、今日もたくさんの「わからないこと」と、不思議な哀しみを抱えて途方に暮れている。
ふたり手を繋いで春の花畑を歩くの。
太陽が祝福するみたいに日差しを振りまいて、あなたの髪にきらきら反射する。
わたしは幸せで、あなたも幸せなの。
怖いことなんて何もなくて、すべて満たされたふたりだけがいるの。
それからあなたが私を優しく抱きしめて、わたしは暖かいあなたの頬にキスをするの。
ねえ、すてきでしょう。
雪のような白いシーツの海に埋もれる君は、まるで春の訪れを待つ蕾だ。
君が囁く憧れは幸福の色をして、窓の外の寒々しい冬空に柔らかな温度を与える。
ねえ、あなた。
春が来たらきっと、花畑に行きましょう。
約束よ。
微笑んで、君は目を閉じた。
静かな、本当に静かな寝息が聞こえる。
僕は君の手を握ってやった。
せめて夢の中で、僕と花畑を歩いていてほしい。
幸せな夢が君の体に命を呼び戻してくれますように。
迫る喪失から君を守ってくれますように。
約束だよ。
僕は眠る君にそっと囁いた。
ありがとう、ごめんね。
ごめんね、のところだけ頭の中で呟いた。
きっともっともっと素敵な人が君の人生に現れる。
わたしのことは、なるべく早く忘れてくれていいよ。
さよならの代わりに笑顔の記憶をあげる。
だから、ごめんね。
君はなんにも知らないままでいい。
たとえわたしの最後の君の思い出が、後ろ姿だとしても。
部屋の片隅で膝を抱える。
初冬の冷気が床から這い上がってくる。
悪夢を見るから、夜は嫌いだ。
眠れない日々はそれでも続いていく。
灰色に見える世界で、なぜ生きているかもわからないまま。
ただ死んでいないだけの人生は苦しい。
このまま床に沈み込んで、地面に埋まって、誰にも見つかりたくない。
何もない部屋から目を背け、体を抱きしめる腕に顔をうずめた。
とろとろと眠気が襲ってくる。
枯れ果てた涙を押し出すように、きつく目を閉じた。
自分の中の怪物が日増しに大きくなる。
あなたの顔をした悪魔が夜毎耳元で囁くので、今日も僕は寝不足だ。
中途半端に残った愛情や優しさという感情たちが、僕を責め立てる。
おまえは何も守れない。
おまえはあの人に勝てない。
僕は何者か。
あなたは何者か。
僕らの矛盾している関係は、僕らだけが知っていればそれでよかった。
ときどき僕とあなたが一つのように感じる。
不本意だが、僕はあなたの示す道を歩くしかないようだ。
今日僕はあなたからナイフを受け取った。
そして、僕の世界は逆さまになった。
反転。
暗転。
明滅する光の向こうを見透かそうと、僕は目をすがめている。