“カレーの匂いを嗅ぐとカレーが食べたくなる”のではなく、“そろそろカレーが食べたいからカレーの匂いを敏感に感じ取るのだ”、みたいな話がありましたね。五歳の女の子に叱られる番組で。
それはともかく、時たま無性にカレーが作りたくなる。
食べたいというより作りたい。
嫌なことがあったとき。あるいは気が向かない用事の前。モヤモヤを持て余してキッチンに立つ。カレーを作っているあいだはふしぎと無心になれる。小洒落たスープだとそうはいかない。ドロドロした不透明のものと時間をかけて向き合っていて初めて私のなかで解消されるものがある、という気がする。
とはいえカレーを極めたいとかではないので普段はレトルト派。最近は無印のマッサマン、マトンドピアザ、コザンブ、トマトのキーマあたりが好きです。
(現実逃避)
そういえば最近狐の嫁入りにあってない。珍しいからわざわざ「狐の」と付くんだろうけど、それでも子どもの頃はときどき見ていたはず。
たぶん、ただぼーっと空を見上げる時間が減ったせいだ。効率とか利便性とか、私の世界はとかく生き急いでいる。雨上がりの虹も、真夏ののしかかってくるような入道雲も、めっきり目にする機会が減ってしまった。
その点、母はよく空を見ている。雲がひとつもないね。明日は満月だね。来週は流星群だって。天気が悪ければ悪いで、どんよりしてるね、とかよく降るね、など、大したことではないけど話している。
別に専業主婦で時間があるから、ということではないと思う。天体ショーとか、星や空に関することが好きなのだ。H3ロケットのニュースも熱心に見ていて、打ち上げ成功の知らせにとても嬉しそうにしていた。
いつまでも空を見上げる人でいてほしいと思う。
ところでちょっと前に知ってなるほどと思ったのが、「降水確率は10%刻みで四捨五入するので、0%でも4%の確率で降る」ということ。これが狐の嫁入りってことか。
(物憂げな空)
※思えば狐の嫁入りは天気雨なので物憂げな空ではなかったですね。
「月が綺麗ですね」ってなんて答えればいいんだろう。
「そうですね」と返して無粋なやつと思われるのは癪だけど、
「死んでもいいわ」だの「私もです」だの返して、もしも相手に世間話以上の意図がなかった場合、確実に会話のキャッチボールができないやつ認定される。それは不本意だ。
つくづく日本人は婉曲表現が好きだよなあ。
まあ十中八九言われることはないだろうから悩む必要ないか。
(Love you)
家の固定電話は最初が0から始まる三ケタだけど、母の故郷はひと昔前まで五ケタだったらしい。
面接で電話番号を聞かれたときなにやら失礼なことを言われたそうで、いまだに根に持っている。
……たしかに、冬は十七時半には真っ暗になっちゃうような田舎ではありますが。
(0からの)
小学生の頃の私は、とにかくよく鼻血を出す子どもだった。ちょっと転んでもボタボタ、鼻をかんだはずみにもボタボタ。人生はじめてのお姫様抱っこは父が洗面所まで運んでくれたときに体験した。母が苦笑半分心配半分の顔で鼻に詰めてくれるティッシュの息苦しさは、私にとって慣れっこだった。
結局耳鼻科で血管を焼いてもらうまで、ずいぶんながい付き合いになった。
あるとき学校のプールの時間にもそれはやってきた。水圧がよくなかったのかもしれない。鼻の奥がゴボゴボして、気づけば鼻血が垂れていた。
先生にしばらく休むよう言われ、プールサイドの屋根の下にとぼとぼ向かった。日陰には上級生とおぼしき男子が三人(休んでいたのかサボっていたのかはわからない)。ちょっと離れて腰を下ろした。
ひとりラップタオルをかぶって体育座りをしているのはひたすら心細く、恥ずかしかった。
そのとき後ろから、
「おれあいつの気持ちわかるわー」
という声が聞こえてきた。上級生のうちのひとりだろう。
私のことを指しているんだとわかった。でも別に嫌な気持ちにならなかったのは、そこにばかにする響きがなかったからだと思う。ほかのふたりがクスクス笑うようなそぶりもない。
心が少し軽くなった。
それきり話題はほかのことに移って、血が止まった私もプールに戻った。
へこんでいるときになんでもないことのように向けられたあの言葉は、なんだか清々しかった。
(同情)