4. 視線の先には
金魚。金魚を飼っていた。名前はつけなかった。どの名前もしっくり来なくて。それに、呼ぶことがない。話しかけるときも声は心の中で留めているし、必ず金魚を見ているときだったから。
私は今まで何度もその金魚を見た。君ってこんなに気持ちよさそうに泳ぐんだね。
おはよう。ただいま。おやすみ。まだ起きてたのか。ご飯だよ。水換えするから掬わせて。今日も泳いでるね。
いつからだろう。
鱗の様子がおかしいよ。苦しいね。薬だよ、これで良くなるといいね。辛いよな。こっちの薬のほうがいいかな。
気分は看護係だった。休日は治療法を調べて比べてみて、平日は部活から帰る足が何だか速くなっていた。エラが動いているのをこの目で見たかった。
「ただいま」
おかえり、と言われると同時に水槽に向かう。
ああ、良かった。大丈夫。
金魚は長いこと戦い続けたが、もう泳ぐ力も残っていないようだった。私は自分の無力を嘆いた。もはや餌をやることもできないほど弱っていた。
ある朝、いつものように水槽を覗くと視線を感じた。こちらを見ている。私もそちらを見ている。
初めての出来事に不思議な気持ちになっていると、君は泳ぎだした。それはかつて私の目を何度も奪ったあの優雅な泳ぎだった。そうだ、君はこれから元気を取り戻して、また一緒に穏やかに暮らすんだ。見惚れていると、あっという間に時間になっていた。行ってきます。
授業中も金魚の泳ぐ姿を反芻していた。帰り道もいつもより上機嫌だった。
「ただいま」
「今日ね、」
「ん?」
「死んじゃったの、金魚」
私が金魚を看取ることはなかった。亡骸も母が見えないように「処理」して「捨てた」という。悲しみや寂しさよりも突然顔でも叩かれたみたいな衝撃が私の心を支配した。
翌朝、いつも通り水槽のもとへ向かうが水槽はない。そうか、昨晩洗って仕舞ったのか。私の手は取り残された餌の袋へ向かう。浮いたり大粒だったりは食べづらそうだったからいつも小粒の沈殿タイプ。美味しそうに食べてたよね。
久々にジッパーを開けて中を覗く。
ああ、食べさせてあげたかった。
気付けば全て口に流し込んでいた。
−−−
もうすぐ3年間経ちますが、書いていて泣くとは思いませんでした。
妹が金魚掬いで5匹持ち帰ってきて、餌をやると一匹が独占して食べるんですよ。独占した者はお腹をパンパンにして程なく死ぬんです。
で、また別の一匹が独占して……と繰り返して半年後に唯一残ったのがこの金魚でした。大食いとプライベートスペースの欠如は体に良くないんだなと幼心に思いました。
食事が控えめなその金魚は6年以上うちで過ごして、気付けば3倍程の大きさに、私も25cm以上成長していました。
1人で寂しかったかな。でも1人しかここには居れなかったみたい。君はあの水槽の中で普段何を見ていたのかな。父、母、妹、私を見分けているように見えたけど実際どうだったのだろう。金魚と話してみたいです。
3. 私だけ
何を書こう。
−
「だけ」は名詞「たけ(丈)」から転じたもので、近世以降になって助詞として用いられるようになった。もとの名詞「たけ」は副詞「ありったけ」などに名残をとどめている。
−
へー。じゃあ、自分の丈について。
身の丈にあった言葉を使いたい。そう思うことがある。きっかけは一人称だった。幸か不幸か、日本語は一人称表現の品揃えが豊富だ。
一人称を考えるときに、正直よく分かってない自分のこと、他者からの見え方、結局どう見られたいのか等考慮することが多すぎて困ってしまう。普段いかに考えないで甘んじているのか。
姑息の策として一先ずは周りに合わせている。私が多い場では私、俺が多い場では俺、はたまたワイが多ければワイという具合だ。なぜその場しのぎかというと、多数派に属している筈なのに一人だけ浮いている感覚に気づかない訳でもないからだ。
答えを出すのをいつまでも保留し続けているので、この調子では納得する日は来ないだろう。もはやこのまま死ねそうだ。
それならば、この保留状態を身の丈と呼びたい。
2. 遠い日の記憶
まだ18年しか生きていないのでこのお題は難しい。それに、何かフックがないと思い出せない。昨日はツーマンライブに行った。そこから広げてみようと思う。
そのツーマンの片方は、2年前の梅雨、自分が初めてライブ会場に足を運ぶ目的になったアーティストだ。
幸運にも小雨程度で済んだその日の会場はZepp羽田で、とにかく大きかった。眼鏡越しで見ても米粒のように小さい演者。広くて天井も高い会場に音が反響していて、ライブってこんな感じなんだなと思った。そして、3年間スマホで聴いていた演奏を生で聴けた喜びに浸っていた。
やはり、これは遠い日の記憶とまではいかないか。では、音楽に触れたいと思うようになったのはいつだろうか。
4歳の頃ピアノを習い始めたのは自分から言い出したからなのか思い出せない。少なくとも、小4で辞めたときは親の意思で辞めたけれども。
その小4の頃入った合唱団は自分の希望によるものだった。だから意欲が湧いたのはその前だと思う。きっと小学校の行事だろうな。小学校では隔年で音楽会が開かれていた。2年生のとき合唱団の演奏を聴いたのがきっかけな気がしてきた。
それから、集団で演奏することを楽しんでいた。団員は150人程いてその上二部合唱だったから、1つのパートに70人位はいた。だから、いつものようにみんなに頼れないソロパートは酷く緊張していたのだろう、本番の記憶が一つもない。
中学に上がって吹奏楽部に入った。それまでずっと水槽学部だと思っていた。とにかく低音パートをやりたかったのでチューバに入った。部員は80人いたが、合唱とは一転して同じパートには3-5人しかいなかった。でも、少人数で一つのことをやるのが楽しかった。何よりベースという役割がやりがいに溢れていた。
高校では少人数(過疎)オーケストラの部に所属して、チューバを続けつつ、それだけでは暇な曲が多いのでフレンチホルンを始めることになった。そこでは、チューバはもちろん一人だし、ホルンも1st 2nd...と一人ずつ分かれていた。今までのようなパート仲間はいなくて辛かった反面、自分しかいないから上手くいけば分かりやすく評価してもらえることもある。正直趣味に評価とかいらないけど。
こうして振り返ると、幼い頃の自分は「みんな」でやることを楽しんでいたし、「みんな」を当てにしすぎていたと思う。けれど、それも分解すれば沢山の個人に過ぎない。責任感というものをもっと早くから持っていれば、今頃文系コースではなく、音楽コースにいたかもしれない。
それでも、結局こういう呑気なところは自己を構成している大きな一要素なので、音楽コースは難しいと思った。とにかく、この先も呑気に音楽を続けていくので、やめることはないだろう。やめるときがあれば、真剣になってしまったときだ。
(最後まで読んでくれて、或いは途中まで読んでくれてありがとう。人の目に入ることを想定していない長さでダラダラと書いてしまった。最初の話絶対いらないし。今後しばらくはいかに短くするかに気をつかいたい。)
1. 空を見上げて心に浮かんだもの
先日まで、現代文で『空の怪物アグイー』を学習していたのを思い出した。その人にとって替えが利かなくて大切なのに喪ってしまった存在が空を浮遊するという。
現実世界の«時間»を生きるのをやめるか否かとか、そもそれらがが精神的な空に浮かんでいるかとかは別としても、そういう存在はある人にはあるのだろう。
もしもそんなものがいつも見える場所に現れてしまったら、と思うと恐ろしい。喪ってしまったのだから、姿を見せないでほしい。忘れたい。でも、忘れるのは怖い。そんな気持ちの表れが空を浮遊していることなのだろうか。
再び空を見上げると、やはり雲が浮かんでいる。湿り気を運びながら。