【今日の心模様】
しまった。
鞄をまさぐる手を止め、私は小さく息をつく。
本が、ない。
昨日、読み終わった本を片付けたあと、次の本を用意するのを忘れしまったようだ。
仕方なく、私はスマホを取り出すも、すぐに指は止まる。
見るものなんて、特にない。
……今日に限って、彼女は休みだった。
風邪をひいたらしい。
せいせいするはずなのに、手持ち無沙汰から、視線だけが宙を彷徨う。
__来るはずもないのに、顔を上げてしまう。
別に、何かを待つ理由があるわけでもないのに。
それでも落ち着かないのは、本が無いだけでは、ない気がした。
【桜散る】
ひらりひらり。
本の隙間を、淡い花びらが染める。
風に乗って、窓から入ってきたらしい。
つまみとろうと、思ったが、先に横から手が伸びてきた。
「教室に入ってくるなんて、珍しいね」
拾い上げた花弁を眺めながら、晴香が呟く。
「別に。桜なんていつも散ってるでしょ」
そう言いながら、私はページをめくる手を止めていた。
押し花をする趣味はない。
「草笛ってあるでしょ? これでもできるかな?」
言うが早いか、晴香は口をつけ、
ピー。
花弁を響かせた。
「あ、できた!」
晴香は目を輝かせると、
「小雨ちゃんもやろっ!」
「私はいいよ…」
「もしかして、できないのが怖いの?」
安い挑発だな、と思うものの、こうなると、晴香は聞かない。
諦めた私は、本を閉じた。
「貸して」
私は花弁を受け取ると、唇を当て、吹き込む。
ふー。
……鳴らない。
何度吹いても、花弁が震えることはなかった。
「えへへ。こうだよ〜」
再び花弁を手に取った晴香が花弁を鳴らす。
「小雨ちゃん、不器用〜」
得意気な晴香をよそに、私はため息をつくと、読書に戻ろうと、本に手を伸ばし__
「それにしても、小雨ちゃん、間接キス、しちゃったね」
手が止まり、顔が急に熱を帯びていく。
顔を上げると、満面の笑みな晴香の顔。
油断した。
「い、今のは……違うから!」
必死に取り繕うも、晴香はニヤケ顔を崩さない。
晴香の口にしたものを、躊躇いなく口にしてしまった自分に。
__それを当たり前に受け入れてしまったことが、私は納得できない。
なのに、その違和感さえ、すぐに薄れていく気がした。
【快晴】
快晴。
晴れの天気の中でも、雲一つないような、澄みきったものを指す。
何もかもが鮮明に見えるこの天気が、私は苦手だった。
「おはよう、小雨ちゃん」
振り返ると、彼女もまた、曇り一つない瞳で、私を見つめている。
何よりもその瞳に吸い込まれてしまいそうで、__目を逸らすタイミングが、いつもわからなくなる。
「はあ、おはよう」
面倒くさそうに、私は応える。
彼女は出会ってから、妙に私にだけよく絡む。
他のグループにいることも多いが、朝と放課後は特に、来なかった日はないかもしれない。
「えへへ、今日も暑いね〜」
彼女が来るたびに、私は適当にあしらうのだが、一度もその瞳が曇ったことはない。
今日もそうだった。
怒りも、困惑も、不満も、ましてや、喜びもしない。
純粋過ぎるほどに澄みきった瞳は、とても綺麗で。
そんな瞳に、私は安心してしまうのだ。
__何も、返ってこないから。
【春爛漫】
桜の木の下には死体が埋まっている、というのは有名な話だ。
そんな桜は本当に存在するのだろうか。
いや、ない。
あったら、大事件だ。
そもそも、根っこがしっかり張られた木の下を、人が埋められるサイズまで掘り起こすのは不可能だろう。
春爛漫の季節を彩る、学校特有の桜を眺めながら、馬鹿馬鹿しいと、首を振るのだった。
「小雨ちゃん、どうかしたの?」
背後から急に声をかけられ、思わず肩が跳ねた。
「貴女……いつの間に……」
振り返ると、見知ったお邪魔虫の顔。
「いっそのこと、こいつをここに埋めてしまおうか」
「え? なにが?」
思わず口に出ていたらしいが、私は気にしない。
恨めしそうに睨む私を知って知らずか、晴香は桜を見上げると、
「小雨ちゃんが埋めてくれるなら、きっと綺麗に咲くだろうな」
その笑顔は、あまりにも純粋で。
桜よりも美しく、死体よりも不気味なものを、私は見てしまったのかもしれない。
【これからも、ずっと】
晴香が邪魔をしに来るようになってから私の読書ペースは半減した。
電車の中くらいでしか、本を読むことができない。
流石に家までは追ってこないだろう。
そう、思っていたのに。
「ここが小雨ちゃんの家か〜」
なぜ。
「なんでいるの!?」
ここまで一度も会わなかったのに。
いたずらっぽい、いや、悪戯そのものの笑みで、彼女は言う。
「これからもずっと、私は小雨ちゃんの邪魔をするよ」
冗談みたいに軽い、でも、妙に現実味のある声。
きっとこの子は、本当にそうするのだろう。
玄関の前で騒ぐのも面倒で、私はため息をついた。
「……少しだけだからね」
そう言って、扉を開けてしまった。