衣替え
去年何着てたんだろ、とぼやきながら衣替えをする嫁。めんどくさいと後回しにしていたが、いよいよ寒気と他人の視線の二重苦に耐えきれなくなったらしい。クローゼットに頭を突っ込んでゴソゴソやってる。が、夏服と冬服の境目で立ち往生し、室内はちょっとした事件現場みたいになってる。
「うわーん、冬嫌い。夏の方がいい」
「どうして?」
「だって寒いもん」
一年前と全く同じ台詞である。俺は息をついて、
「半年前、なんて言ったか覚えてる?」
「覚えてない」
「アタシ冬の方がいい。だって夏は暑いもん」
「言ってない」
「言った」
「人間って勝手だよね」
「人間のせいにしない」
「じゃあ、あなたは夏と冬どっちがいいのよ」
俺は観念して立ち上がった。
「衣替えするか」
声が枯れるまで
今頃、ちょうどいいランチタイムなんだろうな。
何度目かのターンをして、ふとそんな考えが頭をよぎった。両腕はとっくに重く、水中とは思えないほどの熱が体にこもっている。流れる水音に被さるように、荒い呼吸が鼓膜を支配している。肘が曲がりはじめたダサいフォーム。スピードが落ちているのはわかってる。
高校レベルの競泳で長距離に出場する選手は少ない。市内や県大会ではなおさらで、出場選手のいない学校の方が多いくらいだ。短距離と比べたら応援も少なく盛り上がらない。その上、一レースに20分くらいかかる。だからほとんど誰も観ていない。ちょうどいいご飯時か、おやつ時。そんな勝手なイメージ。
カラカラと鐘の音が鳴って、ラスト一往復。すでに体力の限界を超えていた。とにかく前へ。少しでも早く。何も考えられない。今の自分を出し切るだけの存在へと昇華していく。その苦痛と快感の凝集物。
終わった後の会場はやっぱり静かで、私はぼんやりと電光掲示板を眺めてから、這いつくばるようにプールサイドへ上がる。一礼して、表舞台を後にする。
ふらふら歩いていると、駆けつけてくれた子がいた。
「自己ベスト、おめ……ッ」
息を切らして出た言葉は、ゲホゲホと咳に変わる。
「やり直し! 自己ベ、おめでとう!」
その声があまりにもガラガラで、私は一瞬何を言われたかわからなかった。だけど、すぐに全部わかった。
「うん。ありがとう」
喉に手を当ててチューニングする未来の親友を見ながら、次はもっと早く泳がなきゃな、と思った。
始まりはいつも
私は至って温厚な人間だが、人間である以上、怒髪が天を貫くこともある。コンビニ弁当の底が富士山のように隆起していたり、自転車のサドルがブロッコリーに変化していたりすれば、否が応でも負の感情が蓄積する。溜まりに溜まった負感情は、時としてほんの些細なことで破裂してしまう。それが人間というものだろう。
「頼んでもないのに、私に勧めてくるなぁぁぁ!」
あなたへのおすすめ、の文字に髪を振り回す。表示されている商品はどこからどう見ても興味がない。無味無臭。上司が乗っていた車の話ぐらい興味がない。みんなチェックするんだからお前も欲しいんだろ、というAIの驕り高ぶった思考が腹立たしい。
これだからネットショッピングもSNSもユーチューブも嫌いなんだ。次から次へと無駄なものを勧めてくるから余計な時間を食う。トレンドも他ユーザーも、どうだっていい。知りたいことだけ教えやがれこんにゃろぉ。
「商売だからねぇ。仕方ないよ」
彼が諭すので噛み付いてやる。
「いいや、言語道断じゃ! ゆるすまじ」
「じゃあ聞くけど、君の好きな音楽ユニット、どこで知ったの?」
「……うっ」
「いつも観てるユーチューバーは? この前買ったグッツのアイドルは? 最近、ヨガ始めたよね?」
「……全部、おすすめ動画です」
「だよね。じゃあなんて言うの?」
私は深くこうべを垂れた。
「イツモオセワニナッテオリマス」
すれ違い
信号待ちって無駄だよなー。信号機って無くせないのかな。電気代も浮くだろうし。全部の道を一方通行にするとか。いや、自動運転にして全ての車の動きを管理する方が早いかも。最適化すれば、信号待ちも数秒で済むかもしれない。……
ぼーっと信号機を眺めていると、こちらに向かって手を振るヤツがいた。あのあほ面は幼馴染だ。信号が変わると、見えない尻尾を振ってやって来た。
「すんごいあほ面だったけど、何考えてたの?」
お前に言われたくねーよ、と思ったが口にはせず、
「こんなとこで会うとは珍しいな」
「まーねぇ。この辺はよく誰かとすれ違うんだよね」
昨日は誰々と会った、この前は誰々とすれ違った、と楽しそうな幼馴染。駅が近いからかなぁ、などと大真面目に考えている。どうでもいい会話を交わした後、また遊ぼうねぇ、と手を振って去っていった。
また同じ赤信号を眺める。自分は誰ともすれ違ったことがないという事実に思い当たって閉口する。この道は毎日のように通っているのだ。
「……」
なんとなく損した気分になるのは、アイツに道を譲ったからに違いない。
秋晴れ
カラカラと乾いた音が聴こえる。自宅のハムねずみが滑車を回しているのだろうか。カラカラカラカラ。本来なら、聴こえるはずもないのに。
問いの文字を視線が滑った。その先に続く文章を目で追う。文字は音に訳されても意味にはならない。だから何度も読み返す。カラカラと、頭が空回りするような音が脳内で鳴り続く。
気づいたら試験日だった。慌ただしい夏が終わり、ようやく過ごしやすい気候になった。一息つき、二息つき、変わった自分を受け入れ、変わらなかった自分を受け入れた。夏が散らかした私を整理していると、もう秋が過ぎ去ろうとしていた。
なんだかなぁ、と思う。必死に乗り越えた夏は、それはそれで楽しかった。だけど、このまま冬を迎えていいかと聞かれると、首を傾げてしまう。実際、今のままではダメなのだ。この解答用紙が物語っている。
チャイムが鳴った。さっさと帰路に着く。
秋晴れの空が広がっていた。それを見上げた時、私は白紙で出すべきだったと思った。その空には私が探しているものがあった。夏がどうとか、冬がどうとかは何も関係がなかった。ただ清々しいほどの青だけがあった。
一からやり直すのも悪くないか。
天に向かって大きく伸びをすると、涼しい秋風が吹き抜けていった。