つぶて

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5/7/2024, 9:36:26 AM

明日世界が終わるなら

先か、後か。
最後の選択は、ほんの小さなことだった。
進学、入試、就職、結婚、転居…。これまでの選択と比べたら、その先に待つ結果は数分の違いでしかない。
深海のように静まり返った寝室。琥珀色の液体を眺めていた。これから私を殺す毒薬は、月の光を湛えていて美しかった。
あなたの匂いを抱いて、私は眠りにつく。
左腕に小さな痛み。冷たい何かが体に染みていく。
同じ音がもう一つ。あなたが隣にやってくる。
そっと目を開けると、陽だまりのようなまなざしがあった。柔らかに微笑むあなた。安らぎが心を満たし、私は目を閉じる。
私は先がよかった。あなたは後が良かった。それだけのこと。言葉にしなくても、こうなることはわかった。
君は寂しがりだからね、と笑ったあなたを思い出していた。記憶の中のあなたは、いつも光に照らされていて温かかった。今も、昔も。これからもきっとそうなのだろう。
眠りに落ちていく。もう何も思い出す必要はなかった。この温もりのほかには何もいらないのだから。

5/6/2024, 9:30:08 AM

君と出逢って

免許証なんて、高価な身分証だと思っていた。
大学の頃、時間があるうちに取れと言われて取った。数十万円の受講料を払い、どこかの田舎でつまらない数週間を過ごした。そうして手に入れたのは一枚のカードだけ。確かに便利ではあった。身分証と言われれば提示し、サークル仲間と足を伸ばす時にはハンドルを握れた。それでも使うのは月に一、二回。いっそのこと、ゲーミングPCでも買った方が有意義だったかもしれないと、預金残高を眺めては考えたものだ。
運転も大して好きではなかった。車はあくまで移動手段で、道中はほとんど退屈だ。特に高速道路は嫌いだった。単調で終わりの見えない道。友人がいなければ進んで乗らなかっただろう。
緑色の標識を確認して小さくハンドルを切る。この辺りの地名ももう読める。カーナビは静かで、お気に入りの音楽に時折鼻歌が混じる。助手席に座る人は、まだいない。
もうすぐだ。
午前の澄み渡った空に顔が綻ぶ。温かい高揚感が胸に溢れている。いつもごめんねと君は言うけれど、俺はこの時間が好きだった。ただ車を走らせるだけの時間。君がくれた、君の知らない時間がここにある。

5/4/2024, 5:59:58 PM

耳を澄ますと

乾いた喉を潤して、ごそごそと寝床に潜り込んだ。
少し目が覚めたか。
腕を伸ばして時計を手に取る。まだ五時過ぎだ。起きるには早いが眠る必要もない。今日は日曜日で、予定も特にない。
真新しい木目調の天井をじっと見つめていた。柄が見分けられるということは、もう夜が明け始めているのだろう。
胸に手を当てる。不思議と心穏やかだった。
少し前まで、こうして眺める天井は白くて近かった。すぐそばに窓があって、徐々に明るくなる窓が怖くて仕方がなかった。上手くいかないことばかりの日々。焦り、悩み、自分を責め、眠れないまま迎える朝日は刺すような眩しさで、私の心をボロボロにした。
私は、変わったのだろうか。
耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえた。
寝返りを打つと、私にとって特別な人が目を閉じていた。その口元を見つめ、お前はお前のままでいいと言ってくれた声を思い出す。嬉しくなって、悪戯気分で唇を合わせる。反応がないのが、かえって気恥ずかしかった。
恋人の左腕を抱いて目を閉じる。今朝はもう眠れない気がしたけれど、それでもいいと思った。

5/3/2024, 7:14:24 PM

二人だけの秘密

卒業証書を手に訪ねた部室は静かで、どこか殺風景に感じた。くだらないことで笑い合っていたこの場所は、今日から過去のものになる。なぜか距離感を覚えて壁に手を触れると、そこに染み込んだ景色のいくつもが思い浮かんでくる気がした。
「まったく、ガラクタばっかりね」
部室の奥から前部長が呆れた様子で言った。
「ほとんどは男子でしょ? 持ち込んだものはちゃんと持ち帰るように。寄付はなしってルールだからね」
いつもは騒がしい同期たちも、今日に限ってはしおらしい。なんだかんだ言いながらも、大人しく部室を片づける。そんな中、何人かが部室の机を見ていた。
「どした?」
「いや、新しそうな落書き。451ってなんだろうってさ」
視線の先には何かで削ったような痕があった。確かに451と読める。
「さあな。たしか、紙が燃える温度だったか」
きょとんとしている面子をおいて、俺はその場を離れる。視線を感じて目を向けると、前部長と目が合った。そっと視線を逸らす。互いに頬が緩むのを堪えているとわかった。
何してるの、と聞いたあいつの声が蘇る。451の傷を彫っていた時の視界と、肩に寄りかかるあいつの体温。二人の選手番号、41と11の積を刻んだあの日、子どもっぽいねと笑ったあいつの本心を知った。
部室の外、後輩たちの姿が見えた。それから、あの傷が繰り返し誰かの話題になることを思った。
「先輩! 思ったより嬉しそうですね」
「うるせーよ。そんなことより写真撮るぞ」
柄にもなくはしゃぎながら、今日という日がまだ残っていることが素直に嬉しかった。

5/2/2024, 5:50:54 PM

優しくしないで

最初に思い浮かんだのは、一人前の膳だった。
一汁三菜の並んだ鮮やかな膳。仄かな食と畳の香りが入り混じり、安寧という静かな時に身を置く。厳重に警護された居城。足元に立ち並ぶ家々を思い、その食卓の様とを比べない日はなかった。
俺は、恵みなど要らない。
幼い頃から幾度となく考えた。柔らかな衣、恵まれた食、安全な寝床。何もかもを与えられてきた俺は、その一切を切り捨てたいと願った。だがそれは決して許されなかった。
俺は領主の息子として、この国を継ぐために生まれた。民衆が、家臣が、俺を崇敬し、俺を守ってきたのは、俺に未来を懸けていたからだ。その恵みを拒絶することは、己の存在全てを否定することだ。だから俺は享受した。領主としての責務を果たすことと引き換えに、俺は恵みの全てを受け取ってきた。
目を開ける。見慣れた天守閣が俺の決意を待っていた。
「あとは頼んだぞ」
「なりません! 我々は大国相手に十分な戦果を__」
「だからこそだ。お前らの力は知れた。従えば殺されはしない」
「し、しかし!」
「もういい。これが時の流れというものだ」
悔恨に染まった家臣たちを見ると、一層心は鎮まった。
「俺に情けは要らない。大事なのは民の命だ。一人でも多く、なんとしてでも生き延びろ」
刀を構え、己の腹を貫いた。
薄れる意識の中、体から何かが溢れていくのを感じた。民から授かった祈りに違いないと思った。
それはとても温かかった。

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