数学なんて嫌いだと思っていた。決められたルールを使って問題を解くことの繰り返し。1+1=2と決まっていて、1と1が友達になったりはしない。教室の中みたいに閉じられた世界。昔から苦手だった。
高校に入って変わった。新しい先生のおかげだ。どこかぼんやりしていて頼りなさそうだけれど、教えることに関してはピカイチの先生。そう思えたのは、目次にあった微分積分について聞いた時だった。
「微分積分ってどんなのですか。日常で使いますか」
「うーん、そうねぇ」
少し悩んだ先生は、あっと手を叩いた。
「日常の一瞬一瞬を切り取ったら、それって奇跡だと思いませんか? 日常というのは、実は奇跡の連続でできているのです。だから、日常を微分すれば奇跡になります。その逆、奇跡を積分すれば日常になる」
d日常/dt = 奇跡 , 日常 = ∮ 奇跡 dt
ぽかんと数式を眺めている僕に、先生はにこりと言う。
「そのうち解るようになるから大丈夫」
深夜三時を回っても、眠りに落ちる奴はいなかった。地獄のような練習合宿を乗り切った体はとっくに限界を超えていた。誰もがそうに違いなかった。それでもここにしがみついているのは、今この瞬間を、一秒たりとも逃したくなかったからだ。俺たちの最後の青春。こうして同じ飯を食い、同じ苦難を乗り越え、同じ立場で笑い合える。こんなことは二度とないのだ。この場にいる誰もが痛いほどに理解していた。
騒ぎ合い、笑い合い、語り合った。これまでのこと、これからのこと。俺たちには希望があり、夢があった。それぞれがそれぞれの道を歩もうとしていた。
時は等しく過ぎていき、やがて朝が来た。空気を吸いに行こう、と誰かが言った。外に出ると曙光が俺たちを染めた。全員で見上げた朝焼けの空は、俺たちの心の色だった。
あの時の東雲色は、今も心に焼き付いている。
あなたはいつも私の味方だった。一人で膝を抱えている時、空の広さを教えてくれた。先生に叱られた時、失敗は成長の元だと言ってくれた。誰とも話せないと泣いた時、ゆっくりでいいからと背を押してくれた。あなたがいてくれたから、私は孤独を耐えられた。
友達ができた。初めての友達。私の手を引いて、遊ぼ、と屈託なく笑う。私は戸惑い、あなたを見る。あなたは安心させるように笑うだけ。私は怖くなる。一緒に来て、と必死にお願いするけれど、あなたはただ首を振る。大丈夫だから。行っておいで。
私は泣き出しそうになるのを必死で堪えた。あなたが間違っていたことは一度もなかった。
友達が不思議そうに尋ねる。
「だれと話してるの?」
「だれって……あの子」
指をさすけれど、友達は首を傾げる。
「え? いないけど」
「あれ……」
あなたの姿はなかった。私は何度も目を擦ったけれど、やっぱりあなたはいない。
「まあいいや。それより、あっち行こうよ」
手を引かれる。訳がわからないまま、私は一歩を踏み出す。あなたの姿は見えない。その代わり、確かな温もりが掌に伝わっていた。
放課後。エントランス。雨を見上げて立ちすくんでいるあの子がいた。ツンと整った綺麗な横顔。黒髪のポニーテールが溌剌とした彼女によく似合っている。手にしているのは鞄が一つだけ。たぶん、黒猫のキーホルダーがついたやつだ。
僕はちょっと周りを見回した。誰もいない。それから自分の傘を見つめた。傘があった。黒い傘。あの子には無い傘。
どういうわけか蘇ったのは、進展とかないから、という自分の声だった。つい最近のことだ。部活の帰りに友達とだべっていた時の記憶。好きだとか好きじゃないとか、火遊びみたいな会話をしていた。知ったようなふりをして、その実自分のことは何も知らない奴ら。その一人に過ぎなかった僕は、あの時も本心から逃げた。大体、話しかけるキッカケとかないし。キッカケあれば話せんのかよ? 当たり前だろ。ホントかよ。ホントだって。
言い逃れ。後ろ向きな本心を隠すための言い訳。勇気がなからキッカケのせいにしていた。ずっと。これまでは。
雨音がする。弱まる気配はない。あの子が立っている。人の気配もない。鼓動が騒いでいる。喉が渇いている。右手を握りしめる。傘がある。黒い傘が。
あの子が振り返る。
僕は小さく息を吸う。
ガチャ、と何かが固定される音がした。逃げられないと思うと冷や汗が出た。終わったかもしれない。なんの予兆もなく動き出す車体。傾斜は思った以上に急で、全く前が見えない。どんどん遠ざかっていく地面。前を向けば快晴の空。果てしない後悔が全身を駆け巡る。君のためとはいえ、断固として拒否すればよかった。お金を払って、列に並んで、拘束され、挙句に落とされる。人間はなんと愚かな生き物だろう。ma=F、E=mc^2だというのに。
この時、僕は世界の真理に到達していたのだが、残念ながらその記憶がない。一つ学んだのは、ジェットコースターには二度と乗らないということだ。