ぱたり。
物語の扉が閉じる音。
静けさ。
カチ、カチ、と小さな音が耳に届き始める。
いつの間にか針は進んでいる。
視線を落とす。
私の手がある。
文庫本がある。
それから私自身がある。
大きく伸びをする。
読み終えた本の表紙を眺める。
じんわりと胸を満たす感慨を噛み締める。
ゆっくりと息をつく。
枕元に本を置き、明かりを消す。
柔らかな夜の幕が降りる。
蘇る光景、声、言葉。
全部ないまぜになって、暗闇に溶けていく。
夢でまた会えたら。
そう願いながら眠りに落ちる。
真夜中。
店先で足を止めると、ふわりと甘い匂いがした。
5月の花の香り。
心を託される花たちの香りだ。
胸いっぱいに吸い込む。
いい匂い。だけど、まだちょっぴり苦い。
微かなカーネーションの気配に、
決まって思い出すのは何年も前のことだ。
自分が馬鹿だと思うことは数え切れないけれど、
あれほど自分が馬鹿だと思ったことは少ない。
それまでの私は、
無償の愛、という言葉を信じて疑わなかった。
あんたは私の子どもだから。
いつだって母はあんたの味方さ。
母は我が子を愛するもんさ。当然だよ。
我儘で振り回していた母。
私が弱った時はいつでも寄り添ってくれた。
私はそれを不思議とも思わなかった。
ある年、ふと思い立って母の日に花を渡した。
なんだい珍しいね、と笑った母は泣いていた。
その光景に私は動けなくなって、それから……どうしたんだっけ。
親は我が子を愛するものかもしれない。
無償の愛を注げるのかもしれない。
だけどそれは当然のことじゃない。
自分より他者を大切にするなんて、ものすごいことだ。
そんな当たり前のことに気づいて、
私は己の浅はかさを一つ知った。
回想から醒めた私は、今年も店員さんに声をかける。
「これ、包んでもらえますか?」
「絶対後悔するから」
あの日、あいつは俺に呪詛をかけて消えた。
俺は気にしちゃいなかった。
後悔なんてするかよ。
吐き捨てて、さっさと田舎町を抜け出した。
上京して知った。
己の甘さ。弱さ。
痛いほどに突きつけられた。
才能なんてなかった。
もがくほど溺れていくような感覚に取り憑かれた。
後悔なんてしてたまるか。
自分に言い聞かせる日々。
これは自分で選んだ道だ。
振り返っていちゃ成功なんてあり得ねえ。
今の自分を否定するなんて、できるわけがねえ。
最近、彼女が夢に出てくるようになった。
絶対後悔するから。
うるせえよ。
そう言って目が覚める。
瞼の奥、堕ちた未来の俺が後悔している。
風が吹いて、はらりと音がした。
あっと思った時には後の祭りだった。
ひらひらと楽しげに彼方へと消えていく紙切れ。
慌てて追いかけると、
遠く向こうで男子生徒が拾い上げるのが見えた。
私は咄嗟に何も知らないフリをして、踵を返す。
ノートに挟んでたの、忘れてた。
授業中にこそこそと書いていた私小説。
それも、だらだらと本心を吐露しただけの駄文だ。
ああ、なんということでしょう。
私の赤裸々な文章、知らない男の子に大公開。
さようなら、私の紙切れ。
あなたの持ち主はもう現れないでしょう。
今生の別れを告げたはずだった。
翌朝、学校の玄関に折り鶴が飾られていた。
直感があって、私はそれをこっそり持ち帰った。
折り鶴を開く。
『素敵な文調ですね』
心に風が吹いたような気がした。
「明日からしばらく休みとか、最悪」
「宿題多いしね」
「それな。お前、おうち時間何すんの?」
聞かれた瞬間、ドキッとした。
なんて答えよう……。
本当は、小説を書くことしか考えてない。
でも、正直に教えるなんてできない。
またまだ実力ないし、見せてとか言われたらヤだし。
相手だって話の広げようがなくて困るだろうし。
ゲームする、とか言ってみる?
でも一緒にやろうってなったら時間なくなりそう。
ランニング、とか言ってみる?
でも自粛明けバテバテで嘘になりそう。
「んー、やっぱ読書、かなぁ」
心の中で友達に手を合わせる。
苦笑いを浮かべる自分がもどかしかった。
早く、自信を持って答えられるようになりたい。
休みの日、何してんの? に。