徹夜をして平気だった試しがない。
高校生の時も大学生の時も、日中に反動としてありえない程の眠気と気持ち悪さと疲労感が襲ってきて、徹夜は伝家の宝刀ではないのだと知った。
まして30歳になった今、そもそも徹夜ができるのかどうかすらも怪しいのに何年か振りの徹夜をしている。全くまいった。
原因が過去の自分にあっても自分を恨めしく思うことは不思議と全くない。
我ながらしょうがないやつだと思う。しかし過去へ戻ることもできないし、戻ってもどうせ変わらないだろう。
やるべき作業はもう終わりが見えてきた。
あとはデータをPDF化して上司に送りつけて終了。とりあえずは2時間ほど眠ることができそうだ。
カーテンの隙間がわずかに明るい。
大きく伸びをする。骨がパキパキと鳴る。
窓を開ければ鳥の声が聞こえてくるだろう。
部屋の中はレッドブルの匂いが充満している。
『夜明け前』
時計は不思議な機械だと思う。
現実では同じ時が繰り返されることは決してないのに時計の針は同じ場所を回り続けている。
カレンダーも同じだ。
一年を365日、または366日としてそれがひたすら続いていく。
何冊も何冊も。
こういうのは考えすぎると怖くなってくる。
でも同じ日はないんだよなと当たり前のことを思う。
さっき食べた野菜炒めだって昨日のと同じようで少し違う。
毎日少しずつ違って美味しい日もあればちょっと物足りない日もあって、でも同じ味になることは決してない。
私にとっては時計よりも、カレンダーよりも、野菜炒めの方がずっと現実味がある。
『カレンダー』
消えてほしくない傷痕があった。
昔飼っていた猫にひどく引っ掻かれてできた傷だった。
猫はその後間も無くして逝ってしまった。
傷跡にかさぶたができる度それを剥がした。
治ってほしくなかった。
消えてほしくなかった。
初めて心から愛おしいと思える存在だった。
結局傷痕は綺麗に治り、今はどこに傷があったのかもわからない。
あれから何年も経ち、その猫のことを思い出すことも少なくなった。
耐えられないほどの喪失感に苛まれることもなくなった。
家の中で面影を探すこともなくなった。
もうなくなってしまった。
『喪失感』
化粧をするのは嫌いじゃない。
自分の見目を綺麗に整えるのはなかなか楽しい。
しかしどうにも目の下のクマはいくらコンシーラーを重ねても消えてくれない。
休みの日に10時間以上寝ても消えない(だから睡眠どうこうではない)。
案外憂いを帯びてセクシーに見えるかもしれないし、と自分に言い聞かせてほどほどで手を引く。
大丈夫、今日も綺麗よ。
鏡の前でにっこりと笑う。
大丈夫。
不完全でいじらしい、愛しい私。
世界にただ1人の私
『世界に一つだけ』
「ももちゃん?」
久しぶりに聞いた、私の名前。
呼ばれた方を向くと40代前半くらいの優しそうな女性、と手を繋がれてる小さい男の子は多分その息子。
人間関係はかなり狭いけど、その女性に見覚えはない。
「あ、ええと すみません、私…」
人違いです。と言葉が出かかる。
だけど名前、私の名前を知っていた。
「あ、ごめんね。びっくりさせちゃったよね、いきなり。だって幼稚園以来!」
記憶に埋もれていた幼稚園の先生の面影が鮮明になっていき、目の前の女性とぴたりと重なる。
「かなえ先生……!」
途端、鼻の奥がツーンとして涙が込み上げてきた。なんで、ああ情けない。
自分でも理由がわからないまま涙がポロポロとこぼれる。
「あらあら、どうしたどうした」
そう言いながらかなえ先生は駆け寄って来て私の背中をさすってくれた。
恥ずかしい。何も成長してないじゃないか。
呼吸が乱れて頭に鼓動が響いてくる。まずい過呼吸だ。
やなとこばっかり昔と変わらない。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、、
頭が痺れてぼーっとする。
男の子が心配そうにこちらを見上げてくる。
「だいじょうぶう?しんこきゅう、するといいよ。すぅー、はぁー、すぅー、はぁー」
ハァ、ハァ、、すぅー、はぁー、すぅー、はぁー、すぅー、はぁー、すぅー、はぁー……段々と、落ち着いてきた。
先生は変わらず背中をさすってくれている。
「ももちゃん、私、思うのよ。大人なんてどこにもいないのよ。みんな途中で、何もかもができて、何もかもがわかる時なんて一生来ないのよ。だから何も気負わなくていいの。大丈夫よ。大丈夫、ももちゃんは、ももちゃんでいれば」
ってありきたりか、と先生は明るく笑う。
もう一度息を深く吸い込んでみる。
そうか、途中か。
時間をかけてまた息を深く吐き出す。
そうだよね、大丈夫、きっと大丈夫。生きていくんだ、私は私で。
『胸の鼓動』