Amazonで欲しいものを購入したときほど、宅配が待ち遠しいことはない。
待ち遠しすぎるあまり、入浴中に玄関のチャイムが鳴った気がして、ビチョビチョに床を濡らしながら玄関に行き、
しんとした玄関を見て、なんだ空耳かとがっかり。(この格好でどうやって受け取るつもりだ、とその時気づく)
秋風の吹く頃になると、そんな待ち遠しい気持ちを読んだ和歌を思い出す。
額田王という、西暦600年ごろを生きた女性だ。
君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
→田園の中にある小さな家。女性が机に頬杖をついて誰かを待っている。そう、愛しの恋人。
ふっ、と簾が揺れた。
あの人かしら…!
期待に揺れた女性は戸口を振り向くが、
誰もいない。ああ…秋風だったのね…しゅん。
高校時代これを古典で習った時、
気になる相手からの連絡を今か今かと待ち、何度も携帯を手に取ってしまう、そんな気持ちは今も昔も変わらないのだと思った。
でもそれにしたって、秋風と風呂で聞いたチャイムの空耳を一緒にしたら、額田王も怒るだろうなあ。
毎日文が長いので、今日は短歌にしてみました。
また会おう
言葉は胸に生きたまま
桜咲くころ 母になります
スリル。やはり長くなってしまいました…。
東京で学生をしていた頃、時々夜、皇居外周を走った。
半蔵門の辺りから緩やかに下っていくと、丸の内のビル群の明かりが見え、絶え間なく流れていく車のテールランプが田舎者の私の目には美しく映った。
しかしそれよりも好きなのは、最後にやってくる暗く静かな遊歩道だった。
すれ違う人はほぼ無く、明かりも見えない。緑の匂いが濃いので束の間、田舎の夜に帰った気になる。
女一人には心細いその小さな暗がりを走ることに、私は少しのスリルを感じていた。
その夜は年の暮れも押し迫って寒かった。
いつものように半蔵門から走り、遊歩道にさしかかったが、その日は一段と暗く、
人の気配が無いかわりに黒々とした木々の存在感が強かった。
今日は早くここを抜けたい。直感的に足を早めた時、
前方にぼんやりと赤い光が浮かんだ。
ゆらゆらと揺れているが懐中電灯や自転車ではない…
火の揺らぎだ。
どうも、提灯を持った人が歩いてくる。
気味が悪くなって引き返そうかとも考えたが、
ええい、仕方ないとその火に向かって走った。
どんどん近づく。
一人では無い、集団のようだ。
ボソボソとした話し声がする。
全員、ロングスカートだろうか…袴…?
そう思った瞬間にすれ違った。
古い畳のような匂いが鼻をかすめた。
一人の男の横顔がちらと見えたが、頭頂部を剃り、
髪を結ってある。
どの人影も私と同じほどの大きさしかなかった。
私は150センチである。
振り返らず走り、半蔵堀まで来た。
堀は深い底なしの谷のように感じられた。
スリルとは、自分の力が及ぶ範囲において感じられるもので、その範疇を飛び出てしまうと恐怖に変わると知った。
だいたい皇居って昔の江戸城だもんなー。
仕方ないか。
今日は少々真面目で長い話になってしまう。
先日教育関係の講演会で意外な光景を見た。
講演は子どもの可能性に関する内容だったのだが、
その中で、ある話に聴衆が涙する場面があった。
その話というのは、
自分は不器用だと思いこんでいた女子大生が、
ひょんなことから小さなロケットを作り、
それを飛ばすことになった。
発射時手を震わせていたその学生は、
無事ロケットが空に上がったとき、嬉しさのあまり泣いてしまう。
振り返れば、不器用だと思い込むきっかけは、
小学校の図画工作の評価が低かったことだった、
と女性が語ったという話だ。
この話に多くの大人が涙していたのだ。
驚いた。
その涙を見て、
大人たち自身も、昔学校教育で自信を失い、
それを引きずって生きていたり、
不得意の烙印を押され苦しんだ経験があったりするのではないかと思った。
ふと、私は大学で、意中のアメリカ人の学生に
告白出来なかったことを思い出した。
英語に自信がなかった。
受験のために少なくとも2000時間は勉強しのに…。
と、これは自分の中での笑い話になっているが、
果たして今の学校教育は、子どもたちの可能性を磨く場になっているかどうか。
子どもたちが、自己実現のための大きな翼を手に入れる場になっているのかどうか。
泣いている隣の女性の、その背中には
飛べない翼がぐったりと垂れているように、
私には見えた。
ということで、少しでも将来の大人たちが自由に飛び回れるように、私もなにかしたいと思ったのでした。
秋の終わりのこと。
近所の小学校の前の横断歩道で、
黄色い旗を振って子どもたちを渡らせていたおじいさんがいなくなった。
5日経ち、さすがにもう戻ってこないと察しはつくが
なにか諦められない。胸につかえるものがある。
私がここに越してきて五年、平日の朝と午後三時に必ずその老人を見かけた。
小柄な身体で青信号になるたびに道の真ん中に飛び出すように進み、旗を振って、
行ってらっしゃい、
はいおかえりと子どもたちに声をかける。
少し曲がった背と、どこかぎこちない動きと
しわがれた声の中に少しの偏屈さを感じながら、
その枯れ薄のようなおじいさんを私はただただ横目に通り過ぎてきた。
それが、いざいなくなってみたら、こんなに寂しいなんて。
枯れ薄なんて思ってごめんなさい。
雨の日も風の日もご苦労様でした。
そんな言葉も伝えられない。
名前も年齢もなにも知らない、枯れ薄のおじいさん。
別れと死は同じだなどと、私に思わせる威力を持っていたおじいさん。
昔、草むらの隅でススキをちぎる時にふと、その穂の元に深い赤があるのを知ってはっとしたことを思い出した。
私は今、横目で見たあの老人の残像に、その赤を見ている。