"朝日の温もり"
ハナは俺が朝食を食べている途中、膝の上に乗ってくる。
日向ぼっこを終えたハナは、陽の光の熱を持っていて暖かい。
日向ぼっこを終えたハナは気持ちいいから、その時の天気によって食後の片付けをほっぽって撫で回している時がある。
『撫でろ』と言わんばかりに喉を鳴らしながら腹を見せてくるし、どんなに駄目だと自分に言い聞かせていても最終的に鳴き喚いてくる。
愛くるしい顔でなでなでを要求してくる事もあるから、やめる事ができない。
俺にもうちょい忍耐力があれば……。
"岐路"
目が覚めて病室に二人になった瞬間、『なんで俺なんかの命を救った』という言葉が口をついて出そうになったが、ぐっと堪えた。
自分を救おうと最高難易度の手術を施した医者にこんな言葉を送るなど、できるわけが無い。
沈黙が降りる。
その沈黙を切るように口を開いた。
とんでもない命令を下され、どうするかギリギリまで悩んだそう。
そんな命令を実行してしまえば良くて医療事故、最悪殺人。普通ならここで命令を放棄する。だが恋人のデータを人質に取られていて、それもあってとことん悩んだと続けた。
そんなの、迷わず俺に手を下せば良かっただろうに。そう言うと、言うと思ったと少し怒っているような口調で言われた。
約束を思い出した。自身の矜恃も思い出した。だから約束と矜恃を守る為に俺を救う方を選んだと、とても晴れやかな顔で続けた。
究極の選択を迫られた時、俺は選べる自信が無い。俺にはできない選択を最終的に自分の心で選んだ、目の前に立つ年下の天才外科医の事を『強いな』と感心して、思わず口角が上がった。
また口を開いて今度は何を言うのか黙って待っていたら、衝撃の言葉が出た。開いた口が塞がらないとはこの事かと体感した。
この話はまた今度。
"世界の終わりに君と"
世界が終わるからって特別な事はせず、いつも通りに過ごしたい。
そんな中で、もし許されるのならば、飛彩の隣にいたい。
最期の時間を、ハナと飛彩と一緒に過ごしたい。
《大切》と一緒がいい。
"最悪"
「……最悪」
ベッドの上にうつ伏せの状態で、顔を枕に埋めながら短く呟く。小さな呟きが枕の中に霧散する。
「『明日機材の点検してぇから優しくしろ』つったのに、あそこまでしろなんて言ってねぇ」
顔を横に向けて、水を飲みながらベッドの端に座る背中に文句をぶつける。
「『やめろ』つっても止めねぇし」
「……済まなかった。歯止めが効かなくて」
「毎度毎度思うけど、どんだけ溜まってんだよ。……ったく、いつになったら我慢を覚えんだ」
説教のような文句をぶつけながら、自身の下半身を覆う掛け布団の中に手を入れ鈍い痛みと怠さを覚えている腰をさする。
「ちっとは俺の歳を考えろ。体力は同年代と比べれば結構ある方だと思ってっけど、数年前の自分と比べれば確実に衰えてんの。加減してくんねぇと持たねぇの。いっつも寝落ちてんの、認めたくねぇけど歳のせいもあんだよ」
体力は数年前から俺の方がすこし少なかったし今でもそれを感じる。体力を向上させる為に移動は徒歩ばかりだし走ったりもしてるけど、年齢による体力の衰退のせいでこの頃徐々に下がっていっているのを感じている。
老化はどう足掻いても抵抗する事ができない。だからこれ以上衰退しないよう、底上げに重点を置いて散歩の距離を伸ばしたり軽く走るポイントを設けて走ったりと毎日努力はしているが、こいつの前では無駄に終わる。このフィジカルオバケめ。
言いたい事を全て言い切ると、途端に喋り疲れが襲ってきた。小さく息を吐いて再び枕に顔を埋める。
すると、掛け布団ごしに腰を撫でるようにさすってきた。
布ごしでも分かる優しい手つきで、心から悪いと思っているんだなと少し口角が上がったのを感じる。
「善処する。貴方をこれ以上、傷付けたくないから」
枕の中で思わず「ふはっ」と笑いが弾ける。再び顔を向ける。
「そればっか。そういう所も数年前からなんも変わんねぇな」
少し笑いながら言うと、むっ、とした表情で口を開いた。
「愛する者が傷付く所を見て、平気でいられる訳が無い」
「……そういうことをさらっと言う所も変わらねぇな」
「『そういうこと』とは?」
「……なんでもねぇ。言っても一生自覚しねぇだろうから」
頭に疑問符を浮かべながら俺を見てくる。言わせようとすんな。
「いいからとっとと横になれ。寒い」
少し壁際に寄って隣に寝るよう招く。
ゆっくりと身体を動かして俺の方を向きながら横になった。ぎしり、とベッドが軋む音が室内に響く。
枕に頭を預けたのを見て、身体に腕を回す。自分よりも厚い身体と暖かな感触に、胸元に顔を埋めた。
「おやすみ」
俺の頭を優しく撫でながら、柔らかく綺麗な低音の囁き声をかけてきた。
体温と撫でる手つきと優しい低音ボイスで、瞼が重くなる。
「ん……。おやすみ……」
微睡みながら返すと、頭頂部に優しくキスが落とされた。一瞬恥ずかしさに目が覚める感覚があったが直ぐにまた瞼が重くなってきて、完全に瞼が閉じる。
暖かな暗闇の中で少しずつ意識を手放し、眠りについた。
"誰にも言えない秘密"
大我は酔わない。
酔ったところを見た事なかった。
酔いが回った者の介抱をするのが当然のように立ち回っていた。同じ量を呑んでいたはずなのに、そんな様子を見せないで。
だから、酒に強い人なのだと思っていた。
付き合って半年程経った頃に俺の自宅で二人で呑んだ時、その認識は間違いだったと気付かされた。
普段店などで呑んでいる物と同じ程の度数の酒を出し、本人も「それでいい」と言ったので渡して呑ませた。
五杯呑んでも全く酔いが回らず通常と変わらない様子なのに、一杯どころか半分呑んだ辺りで様子が変わった。
顔が紅潮し目尻がとろりと下がって、身体がゆらゆらと、まるでやじろべえのように揺れだした。
帰ってくる言葉や返事も、まるで幼子のように舌っ足らずな短いものばかり。
その後何度か共に呑んできて、一人で呑んでいる時の事を聞いた事もあるが、本人曰く「一人で呑んでいる時も酔った事が無い。酔ったのはあの時が初めてだ」だそう。
条件が揃えば酔いが回るタイプの人だと分かった。
おそらく普段は気を張っていて酔いが回らない身体になっている。だが自身や俺の自宅で、俺と呑んでいる時に気が抜けて酔いが簡単に回るようになるのでは無いかと思う。
大体の人は自分一人だと気を抜くと思うが、まさか一人の時も気を張っているとは。
五年間身を置いていた環境が環境だったとはいえ、俺が思っていた以上に思い詰めていて、それを六年近く経っても引き摺っているのを知って、なんとも言えない感情が一気に押し寄せてきたのを覚えている。
それからは俺が大我の、心から気を許せる居場所になろうと、できる限り寄り添い続けている。
今ではハナという共に暮らすパートナーがいて、大我の居場所が一つ増えた。
シェアハウスというものがあると知って、互いの勤務先から近い場所に部屋を借りて大我とシェアハウスをしようかと思っていたところに大我のもとへやって来て、そのまま大我が飼い主となった。
最初は嫉妬こそしたが、今では大我を守る仲間。
それと、ないとは思うが、大我が酔っているところを他の奴に見せたくない。
大我本人も「恥ずかしいから知られたくない」と言っていた。本人が知られたくないと言うのなら、その秘密を守る事も恋人の仕事。
だが俺の『見せたくない』は、独占欲もある。
酔った大我は、まるであの頃のような笑みを見せてくれて、あの頃と雰囲気が変わっても本質までは変わらないと少し安心するのと、あの頃を思い出して懐かしさに浸れる。
それと単純に可愛い。普段では有り得ない言動で酷く幼くなっていて、俺が手洗いに立とうとすると「ひとりいやぁ」と抱きついてくる。それと色白の肌がアルコールでほんのり赤く染まって色っぽい。
そんな無防備な姿を、他の奴に見せるわけにはいかない。