"狭い部屋"
居室はまぁまぁ広い方だと思う。
けど最近、ハナを遊ばせるには少し狭く感じる。
俺の身長では立って動かせばそれなりの高さになる。腕の長さもあるから、うんと伸ばせば相当な可動域になる。
けれど居室以外はスペースが足りないし、遊んでる最中棚にぶつかって消毒液や鋏などが落ちてきたら危険。
猫じゃらしの扱い方に規制を設けるしかない。
必ず座った状態で、肘を常に曲げて使う。
ハナにとっては物足りなくてつまらないだろうけど、ハナが怪我しないようにする為。
その分、散歩の時に思いっ切り身体を動かさせてやろう。
"失恋"
「またいつか」
「うん、またね」
突然の別れを告げられて少し言葉を交わし、扉の向こうへと消えていく背中を見送った後、帰宅し真っ直ぐ自室に入ってベッドの端に座ると、流れるようにベッドに四肢を投げた。
「もう、会えない」
そう告げた時の彼を思い出し、数多の感情が込み上げてくる。
本当は反抗したかった。『嫌だ』と言いたかった。
だが、あの表情を見せられてしまっては、頷く事しかできない。
せめて今生の別れにしないよう、いつになるか分からない、無期限のような約束を交わす事しかできなかった。
相当にやつれ、昨日までとはまるで別人のようだった。あの雰囲気から察するに、おそらく仕事に関する事だろう。
俺はまだ、医師になる為の勉強を積んでいる学生。対してあの人は二十四歳という若さながら、今や《天才放射線科医》と謳われる程の名医。
そんな者に悩みを聞くなど、無理な話だ。聞いたところで何も答えられず、なんの解決にもならないだろう。
それに、あの人は繊細で真面目で優しい人だ。たとえ口が堅いと分かっている相手だろうと、仕事の話をおいそれと他人には話せない。
医師には守秘義務がある。その事を汲んで理由は聞かなかった。
だが、一方的に「会えない」と告げられれば少しは抵抗する。だから再会の約束を付けた。
「これで良かったのか……?」
夕方の茜色が刺す自室の天井に向かって呟く。
それは自分が発したものとは思えない程に弱々しく、その呟きは静寂の部屋の中に霧散し消えていった。
最後の言葉を交わした後、あの人の背中を見た時からずっとある虚無感が押し寄せてきた。
まるで心に大きな穴が空いたような感覚。この虚無感は、難問を解いてしまった時のような寂しさのようにも思える。
だが、そんな寂しさではない。もっと別の寂しさ。
上体を起こしてスマホの検索タブを開き、適当な単語を並べて検索をタップする。
幾つか出てきた検索結果をスクロールしながら流し目で見て、理解した。
「……なるほど。……そういう事か」
スマホの画面を見ながら、再び呟く。
呟きを零すと、頬に一筋の《何か》が伝った。頬を撫でて、それが涙である事が分かった。
正体を知ってスッキリしたはずなのに、何故泣いているのか。それはスマホに表示されている幾つもの検索結果が、無機質にゴシック体で代わりに答えている。
「これは、相当辛いな……」
自覚する前に、呆気なく終わってしまった。
父の声が扉の外から聞こえるまで、涙の雫が一つ、また一つと落ちて手の甲を濡らした。
"正直"
『目は口ほどに物を言う』とはよく聞く。
俺は、それを体現するような存在らしい。
そこまで固くは無いのだが、表情がほんの数パターンで、お世辞にも表情が柔らかいとは言えない。
だが俺をよく知る者は、目の表情はとてつもなく豊かだそうだ。
俺が何も言わなくても、目をよく見れば何を考えているのか分かるらしい。場所によってはオーラや声色にも出ていると言う。
恋人には、態度にまで出ている時もあると言われた。
最終的にはそれらを纏めて『素直じゃない子ども』と言われた。
誠に遺憾である。
だが、何となく自覚しているものもあるので反論もできない。
とりあえず『素直じゃない』のは認める。だが『子ども』は撤回してもらう。
"梅雨"
日記を書き終え、スマホを手に取る。
「うお」
悲鳴に似た声が漏れる。日記をつけていた間に日付けが変わったようだ。
卓上カレンダーに目をやる。日付けが変わる前は月最後の日だった為、捲って次月のページにする。
「来ちまった……」
また、今度は明らかな悲鳴が漏れた。
──今年も、一年で嫌な時期に入った……。
実際は梅雨前線が来たら梅雨入りになる。去年は確か同じ月の九日に来ていた。だから、まだ来ていないかもしれない。
だが【六月】というだけで、憂鬱になるのは仕方がない事だろう。世間一般的に六月は、梅雨だから。
小さい時から、雨が近付くと頭が痛くなる。その頭痛は雨が止むまで続く。
だから梅雨の時期は毎日のように頭が痛く、痛すぎて移動すら困難な時もある。
視線を落としてハナを見る。相変わらず膝の上で身体を丸くして大人しくしている。顔は洗っていない。
俺の視線に気付いたのかこちらを見上げて「みゃあん」と構って欲しそうな声で鳴いた。
日記を閉じ、「はいはい」と頭を撫でる。気持ち良さそうに目を閉じて、溶けたように俺の手に頭をもたげた。
「ったく、……本当に甘えん坊だな、お前」
「みぃ」
呑気なハナの鳴き声を片手で鍵を開けて引き出しの中に日記を仕舞い、引き出しを閉めて鍵をかける。
「ほれ、ベッドに行くぞ」
ハナを腕に抱えて立ち上がると「みゃあ」と鳴いて腕の中に収まった。
ベッドの端に腰掛けて下半身を布団の中に潜らせ、ハナを自身の腹の上に乗せて栞が挟まった本を手に取ると、ハナが身体を滑らせるように布団の中に潜り込んで、俺の脇腹辺りに身を寄せるように身体を丸めた。
──今年は、ただ憂鬱なだけじゃない梅雨になりそう。
"無垢"
付き合い始めて約半年の間は、手を繋ぐ事さえ難題だった。
原因は、繋ごうと手を近付けると触れる寸前で手を引っ込められたから。
初めは申告してから近付けた。だが触れる寸前に「無理!」と引っ込められた。その度に「嫌な訳じゃなくて、その……」と口ごもりながら謝罪した。
変に意識させるから駄目なのかと思い、移動中等にさりげなく近付けるようにした。それでも引っ込められ、その度に申し訳なさそうに謝罪した。
次第に「俺のせいで……」と自分を責めるようになった。大我の為にももう止めようと思い始めていた頃、大我の方から近付けてきて、小指を摘んだ。
小指を摘まれただけだが、触れてきてくれて嬉しかった。
少し経つと、小指を掴むようになった。そこから掴む指が一本ずつ増えて、人差し指まで掴むようになって慣れた頃。大我の手を握った。
初めは握り返してこなかったが、ゆっくり握り返してくれるようになって、本当の意味で手を繋いだ。
何故ここまで長引いたのか。
大我は小さい頃から円陣や肩組み等、他人に触れられたり触れたりするのが苦手で、俺が触れようとする度反射で避けていたらしい。
それと、本人の恋愛経験が無い事も起因していた。
他人を好きになった事すら初めてで、どうすればいいか分からなかったらしい。
正直に言って、意外だった。
常に大人の余裕を感じさせる態度を取っていて、俺が知っている事も当然のように知っている人(流石に外科的知識はあまり知らない)が恋愛に対してあまり知らないのは驚いたし、俺だけが知る顔を見て優越感に満たされたのを覚えた。
ただ、全く無知という訳では無い。
初めて居室に招き入れられた時、本棚の下の引き戸に少女漫画が五十音順に巻数も順番に綺麗に並べられていて、本屋の棚のような綺麗な陳列の中身に大我の几帳面さが出ていて微笑ましかった。
高校生の頃から読んでいたらしく、「大体は漫画読んで学んでた」「漫画の主人公みたいに上手く立ち回れなくて迷惑かけた」と話す大我に、根の真面目さが滲み出ていた。
そして『この人はあまりにも無垢だ』と知った。
知ってからは反応を見ながら探り探りやるのではなく、緊張をほぐしながら少しずつ慣らす事を心掛けた。
キスも、最初は手の甲から始めた。そこから日を改めながら前腕、二の腕、肩と徐々に慣らしていった。
頬にキスをして、大我が俺の頬にキスし返してくれた時は内心とても喜んだ。
手繋ぎ、キス。これの他に恋人らしい事は無いかどうか、二人で調べた。
そして調べているうちに見つけてしまった。【性行為】という文字を。
俺は『同性同士でもできるのか』と混乱していたが、大我は小首を傾げながら「せー、こーい……?」と、まるで初めて見た外国語単語を読むようにたどたどしく発音した。
その反応も、無垢そのものだった。
恋愛経験が無かったので当然だったが、ここまでとは思わなかった。
通常の男女での性行為も知らなかった。保健体育の授業を受けていたら何となく察するはずなのに、本人曰く「理屈は知ってるけど具体的には分からない」だった。
本当に大変だった。何度も待ったをかけられ、最低限を教えるだけで何日も要した。齢三十歳、その上自身よりも年上の男性に、こんな事を一から教える事になるとは思わなかった。
だが、知らない事を恥ずかしい事だとそのままにせず、むしろ知りたいと必死に頑張る姿は、健気でとても可愛かった。
無垢なこの人を汚していると罪悪感はあったが同時に、自分の為にどんな知識も吸収しようと努力する姿に、また胸を打たれた。
どんな知識を吸収しても、この人の良い所はどうかいつまでも、変わらないで欲しい。