"モンシロチョウ"
早朝、今日は堤防をのんびり歩くコースにした。
桜は全て散ってしまい葉が茂っているが、道の端にたんぽぽが多く咲いており、綺麗な黄色が堤防を彩っている。河川敷には白詰草も咲いていて、周りの草の緑と黄色と白のコントラストに、まだまだ春である事を感じる。
とりあえず一番近くの橋までゆっくり歩こうと歩みを進めていると、急にハナが立ち止まった。歩みを止めてハナの視線を辿る。
数メートル先に咲くたんぽぽの上を、白く小さなものがヒラヒラと舞っていた。
数秒観察して、それが何なのか認識する。
「紋白蝶か」
大きさは五百円硬貨程だろうか。程なくして位置を低くし、たんぽぽの上に留まり巻いていたストローを伸ばしてたんぽぽの蜜を吸い始めた。
紋白蝶の食事の邪魔をしないよう、ハナを抱き上げる。
「久しぶりに見るなぁ」
最後に見たのはいつ頃だろう。
小学生の時まではよく見ていた。それ以降は、視界の端に見かける程度で、ハッキリと認識していなかった気がする。成人してからは、めっきり見なくなった。
──蝶を見て懐かしさに浸るなんて、俺も結構大人になったんだなぁ……。
感傷に浸っていると、食事を終えたのかストローを巻き尺のように巻き、羽をはためかせて舞い上がって別の花の場所に向かった。
紋白蝶を見送って、ハナを地面に下ろす。
「春がいっぱいだな」
「みゃあん」
五月に入って一週間以上経つのに、未だに春の気配を感じる。
まだまだ暖かくなる。もう少ししたら、菜の花が咲いてくる頃だろう。
「行くか」
「みゃん」
足を前に出し、歩みを再開する。
早朝の春の、心地良いそよ風が頬を撫でた。
"忘れられない、いつまでも。"
あの頃より、幻聴幻覚は減った。夢に見る事も減った。だいぶ減った。
『減った』のだ。完全には消えていない。
今でもたまに見るし、聞こえる。
長い長い年月を経てようやく耐性がついて、取り乱したり過呼吸を起こしたりしなくなった。
幻覚、幻聴、悪夢は《あの日の記憶》と《あの日以前の記憶》をまざまざと叩きつけてくる。
そんなものが無くたって、忘れるわけが無い。
《あの記憶》を忘れたくない。
忘れてはいけない。
忘れるなど許されない。
無関係の人間に生まれ変わっても、この記憶は忘れてはならない。
俺の贖罪で、俺を縛る十字架で、俺を生かしているもので、俺の運命。
それが無くなったら、俺が俺じゃなくなる。
だから、何度でも戦いに赴く。
どんなに僅かでも可能性があるなら、何度でもかざす。手を伸ばし続ける。
俺のできる事を精一杯。この身が滅ぼうともやり遂げる。
俺のような思いを、何人《なんぴと》もさせない為に。皆のあるべき未来を取り戻す為に。
"一年後"
一年後は微妙に分かりそうで分からない。
ある程度は分かるけど『〜だろう』とか『〜かも』ばかりで、ハッキリしたものはほぼ無い。
それ以外だと『こうだったらいいな』という願望しかない。
数年前は、自分はどうでもいいと思っていた。誕生日が来ると『また一年生きてしまった』と暗い気持ちになっていた。
けれど今は、『一年生きられた』と少し喜べるようになった。
俺もいつか、心からそう喜べるようになれるだろうか。
"初恋の日"
二十九になって初恋をするとは思わなかった。
幼い頃に《好き》という言葉を他人に言った事あるが、その《好き》は両親への《好き》と同じ意味合いでだった。
小学校高学年になってからは一度も言った事がない。
そんな俺が二十九になって、久しぶりに《好き》という言葉が浮かんだが、その意味が全く違うものになっていた。
じわじわと気付いていったから、ハッキリとは分からない。
ただ、その《好き》に別の名前が付いた日は覚えてる。
自分が同性に恋心を抱いた事への混乱。カミングアウトした時、自分の想いを受け入れてくれるかどうかの不安。それと、周りの偏見。
混乱と、不安と、恐怖。
だからといって、想いが無くなる訳ではない。むしろ、消えるどころか大きくなった。
名前が付いた事で大きく膨れ上がったのだ。
あれほど強欲に何かを求めたのは、とてつもなく久しぶりだったが、それ以上の強欲さだった。
勿論結ばれても、結ばれてから何年経っても減らない。
初恋の日は、俺が人に対して強欲になった日でもある。
"明日世界が終わるなら"
特別な事はしない。
日常を過ごしたい。
何気ない幸せを噛み締めたい。
我儘を言うとしたら二つ。
一つは、恥ずかしいけど、皆に面と向かって礼を言いたい。
自身の性格上、照れ臭くてこういう時にしか感謝を伝えようとしないから。
もう一つは、ハナと飛彩と最期まで過ごしたい。
親代わりとなって、今や大切な家族のハナ。
幾度とぶつかって、心惹かれて、大切な人になった飛彩。
二人と一匹、一緒に最期まで日常を共に過ごしたい。
それ以上は、何も望まない。