"何もいらない"
「お家に着きましたよー」
「みゃあん」
キャリーケースをそっとベッドの上に置いて蓋を開けると、軽い足取りで出てきた。
今日は抜糸の日。移動の時ずっと邪魔だったエリザベスカラーも外れたからか、嬉しそうにも見える。
報告する為チャット画面を開き、グループチャットの入力欄をタップして文章を入力、変換して送信する。
《抜糸終わった》
《一週間くらい様子見》
ふぅ、と息を吐いてスマホを机の上に置く。
診察室を出る前、獣医に「もし舐めようとしたら全力で止めてください。頻度が多いようでしたらエリザベスカラーを付けてあげてください」と言われた。
エリザベスカラーは手術前に買ってある。だが術前、言うのを忘れて迎えに行った時には病院のを付けていた。
その時キャリーケースの中から、買っていたエリザベスカラーを申し訳なさそうに出すと、そちらも申し訳なさそうに謝りながら外そうとしたが、言い忘れていたこっちが悪いので、抜糸の時に使うと言って借りた。
ハナの傍を離れる時にエリザベスカラーをつけるかと思ったが、一瞬で首を振って否定する。
エリザベスカラーを付けた後に鳴き叫んだり、付けさせてくれなくなったりするかもしれない。
かといって、じゃあ診察室に入れるかとはならない。
──やっぱり、常時付けるしかないか……。
「ごめんな……もう一週間の辛抱だから……」
そう謝りながらエリザベスカラーを出してハナの首に巻き付ける。
「う"ぅー……」
唸り声を上げながら睨め上げてきた。
「本当にごめんな……。けどこうするしかねぇんだよ……」
不機嫌な顔のまま睨んでくる。「そうだ」と柏手を打って言葉を続ける。
「もうすぐ昼飯だし、ちょっと早ぇけど飯にするか」
ご飯でご機嫌取りをしようとしたが、ぷい、とそっぽを向いてふて寝した。
ハナに嫌われた。
この機嫌の悪さは一時的であると頭では分かっていても、面倒をずっと見てきた子猫に嫌われるのは相当心にくるものである。
部屋を出て、ドライフードを盛った皿を手に戻るが、身体を丸くしたまま全く反応してくれない。
近付いてみるが、顔を逸らすだけでピクリとも動かない。
何かに嫌われてこんなに心が痛むのは初めてだ。
そっとしておこう、とご飯をいつもの場所に置いて、居室を出て扉を閉めた。
"もしも未来を見れるなら"
どんな未来なのだろうか。
その未来では、どんな世界が広がっているだろうか。
どんな未来が待っているだろうか。
全て終わって、皆平和に過ごせているだろうか。
終わっていなくても、今より平穏に過ごしていて欲しいな。
"無色の世界"
色が無い。
判断材料は何となくだけど分かる形と、黒の濃淡の二つだけ。
たまに見える色は、見ていて不快な極彩色。
ずっとそんな世界を生きてた。
そんな世界で光など、ただの0《ゼロ》でしかない。ただノイズを消してくれるだけ。それ以上でも以下でもない。
そんな中で俺はずっと、手を伸ばしてた気がする。
もしかしたら、《色》を探していたのかもしれない。
それは《色自体》か、それとも……。
かつて見えていた《色のある世界》をもう一度見る為に。
無くしてしまった《色》を取り戻す為に。
新たな《色》を見つける為に。
《色》をくれる《何か》と出会う為に。
"桜散る"
午後は休みなので、久しぶりに時計塔の所に行こうとハナを連れて時計塔がある公園へ向かうと、沢山の桜の木があり、その殆どが満開だった。
舞い散る桜のトンネルの中を歩いていると、ハナが花弁にじゃれついてクルクルと回りだした。
全く疲れを見せることなく、無数に舞い散る花弁を捕まえようと必死に動き回る。
「お前、本当体力オバケ……」
避妊手術を無事終えた後、十日程はエリザベスカラーを付けなくてはならず、今も付けている。
そんなハンデを諸共せず、閉院している朝や夜中は院内を元気に歩き回る。
傷口が開いてしまう可能性があるので猫じゃらしはしばらく封印したが、その代わりとして蹴りぐるみを与え、気に入ってくれるか心配だったが杞憂に終わり、暇さえあれば蹴りぐるみをサンドバッグに蹴りを連発している。
そんな体力有り余っている子猫が、面白いおもちゃを見つけたのだ。こりゃあハナが満足するまで、しばらくは帰れない。
少し移動して、近くのベンチに座った。
ネットでこの公園の事を調べると、ここは桜の名所でもあるらしい。
確かに綺麗な桜を見ながら散歩するのは気持ちが良い。それだけではなく、この公園自体も実は有名で、メルヘンチックな雰囲気の時計塔に広々とした芝生、花壇に咲く季節ごとの花。こんな所を散歩したがるのも頷ける。
「みゃあ」
足元から鳴き声が聞こえて視線を下げると、ハナがベンチに乗り上げてきた。組んでいた足を解いて内股にすると、膝の上に乗って喉を鳴らしながら太腿をこねる。
ふとエリザベスカラーの中を覗き見ると、桜の花弁が何枚も入っていた。「ふっ」と笑いながらハナの背を撫でる。
「楽しかったか?」
「みゃあん」
喉を鳴らしながら鳴いて答える。
「そりゃ良かった」
そう言うと、身体を丸くして膝の上で休み始める。程なくして、寝息が聞こえてきた。
──やっぱり疲れたのか。ハナが起きるまで待っていよう。
顔を上げて桜を見る。春の柔らかな風が頬を撫でると、また桜の花弁が舞い上がった。
"夢見る心"
『たまにメルヘンチックな事を言う』と言われる。
自分でも、言ってしまった後に『今ポエミーな事言ったな』って気付いて恥ずかしくなって消えたくなる。
学生の時からよく小説を読んでいたからか、はたまた高校生の時にファンタジー系のものを好んで読んでいたからか、言葉選びが詩人のようになる。
返却された感想文やレポートの空白に赤ペンで『的確で綺麗な言葉選びで読みやすい』的な事をいつも書かれていた。
高校卒業以降は流石に恥ずかしいので意識して直していたが、時々意識し忘れて詩人が書いたレポートになってしまって、けれど気付いた時には時すでに遅しで全部直す訳にもいかず結局そのまま提出という最悪な流れが出来上がってしまった。
教授達には好評だったが、俺は恥ずかしくて酷い時は『休みたい』とその場から逃げたくなっていた。
医者になってからは、仕事モードに入る事で抑え込む事ができていたが、休憩時間中や勤務時間外に書く時は凄く慎重に書いていたし、何度も何度も読み返していた。
医師免許を剥奪されてからも、抑え込む事に成功していて、安心しきっていた。
だが数年経って、その安心は消え去った。
文書上は取り繕えても、言葉になって口から出てきてしまう。
今でも小説はよく読むから、自然と口から出てきてしまうのだ。
どうやったら抑え込めるのか分からないのでどうする事もできないが、ごく一部の人間の前でのみなので『もうこのままでいいや』と諦めている。
別に直そうと思ったのは、最初は恥ずかしいからで俺自身は嫌いでは無かったし、今も嫌いでは無い。だが今は年齢的に、この言葉選びはどうなのか。
あまりにも痛すぎる。
そろそろ口にしないよう対策しなくては。