"届かぬ想い"
自分の恋心に気付いたばかりの頃を思い出す。
大学のOB。いづれは先輩。憧れの目を向ける。
大学の後輩。科は違えど、いづれ後輩になるんだ、と少しお上りさんになって連絡を取り合い、科が違うのに勉強を教えると承諾した。
一ヶ月経った頃。自分が抱いているものが別のものに変わっていっている事に気付いた。
自分が抱いているものは普通じゃない。
差別や偏見は根強い。
そう思いながら過ごしてCRに配属されたタイミングで、『これから忙しくなる』と自分へ言い聞かせるように伝え、『既に科が決まっているのに、全く別の科の医師である俺に教えられるものなど無い』とごもっともな言い訳をして、半ば強引に、一方的に連絡を断つ事を告げて、赤の他人に戻った。
連絡を断って数ヶ月後、俺が担当した最後の患者の枕元から見えたツーショット。
恋人ができたのかと嬉しい反面、心の奥が張り裂けるように痛んだ。
こんなの普通じゃない。
俺が異性だとしても、抱いてはいけない。
だからこんなの、絶対に表に出してはいけない。
誰かに悟られてもいけない。
俺へ向けられる怒り、憎悪、恨みは、俺の悲しみや痛みを癒してくれる。俺に《生きている》という実感をくれる。
怒りは有限だが、悲しみは無限で消える事はない。
だから会う度に怒りを向けてくれるような言動をして、新たな怒りを向けさせて、自身の心を満たす為に利用する。
そうでもしないと、漏れ出てしまいそうだったから。
突き放さないと、会う度に湧水の如く溢れ出てくる想いに耐えられなくなって、ダムが決壊するように想いを吐露してしまいそうだったから。
だから、片想いのままで終わらせよう。長年の想いを、悲恋で終わらせよう。
いつかこんな俺に、手をかけてくれるだろうか。
身勝手な俺を、殺してくれるだろうか。
ずっとそんな事を思っていた。
もし当時の俺を言ってしまったら、酷く傷付けて怒らせてしまうだろうから、未練を拗らせた面倒くさい男の、告白以前の想いは墓場まで持っていく。
"神様へ"
早朝の散歩中、小さな神社の前で足を止める。
ハナに出会う前、通る度にお参りしに来ていた神社。
まるで外界から切り離されているかのような出で立ちの鳥居と、奥にある小さな本殿と、その二つを結ぶ参道。まるで自然の要塞のように、周りを木々が鬱蒼と茂っている。
久しぶりにお参りして行こうと鳥居の前に立ち、礼をする。先程までぴょこぴょこと歩いていたハナがピタリと動きを止めて、俺が端の方に移動して進むと、慎ましやかな歩きで俺に合わせて歩を進める。
ここが神聖な場所だと、本能で理解したのだろう。
短い参道の端をゆっくり歩きながら賽銭箱の前に立つ。財布から十円玉を出して賽銭箱に投げ入れ、中に入ったのを確認すると上からぶら下がっている縄を手に取り大きく振って、上に付いている大きな鈴を鳴らして、静かにゆっくり二礼。
上体を起こし、ぱん、ぱん、と小気味良い拍手を二回鳴らす。手を合わせ目を閉じ、顔を伏せる。聞こえるように丹田に力を入れ口を開き声帯を震わせる。
「ハナがこれからも健やかに過ごせますように」
自身の声が小さな神社の中に響き渡る。自分でも驚く程に良く通る声だった。
そしてゆっくり一礼。
上体を起こして背筋を伸ばし、足元で置き物のように静かに待つハナを見据える。俺の視線に気付いたのかこちらを見上げてきて、ハナと俺の視線がかち合う。
「みゃあん」
ハナの鳴き声が、微かな木の葉の擦れる音と共に響く。
「散歩の続き行くぞ」
「みゃん」
ハナの返事を聞いて身を翻し、再び参道の端を歩き鳥居の外に出て、散歩を再開した。
"快晴"
早朝でもパーカーがいらないくらいになってきたので、ハナを久しぶりに地面の上を歩かせる事にした。
ハーネスを付けて床に下ろし、そのまま歩いて外に出ようとするとハナが『いいの?いいの?』みたいな顔で俺の傍をウロウロと忙しなく動くする。
「いいんだよ。暖かくなってきたから、久しぶりに地面歩けるぞ」
そう言うと、言葉の意味を理解したんだろうか。動きが収まって扉の前に行き、座って俺が扉を開けるのを待ちだした。
「本当賢いな、お前……」
ゆっくり扉を開くと、するり、と開いた隙間を縫って我先にと外に出ていった。
案外この時を楽しみにしていたのかもしれない。
小さく笑うと、後に続いて外に出る。
風はまだ少し冷たいが太陽の光で暖かく、風の冷たさを感じさせない。
空を見上げると、雲ひとつ無い青空が広がっていた。
「どうだ?久しぶりに地面踏みしめる感想は?」
言葉を話せない動物に感想を求めるとは、一体いつからメルヘンチックになってしまったんだろう。
少し恥ずかしさに俯いていると「みゃあんっ!」と元気な鳴き声で答えた。見ると、嬉しそうに身体を弾ませながら足踏みをしている。
「良かったな。綺麗に晴れて」
「みゃあん」
嬉しそうに鳴くハナを見て口角が、ふわり、と上がる。
そして「行くか」とハナに声をかけると「みゃあ」と答えて、どちらからとも無く歩き出した。
"遠くの空へ"
ふと外に出て、空を見上げる。
洗いたてのような綺麗な青空に、鮮やかな虹の橋がかかっている。
「おぉ……っ」
あまりの美麗さに感嘆の声が漏れた。
この綺麗な青空は、遠くまで続いているのだろうか。
続いているといいな。
"言葉にできない"
どちらかの家にいる時、『どこにも行かずに過ごしたい』と思っても言えないし行動に移す事もできない。
理由は簡単。《恥ずかしいから》。
《こんな事言ったら迷惑なんじゃないか》というのもある。
五つも差があるから、《年上だから》という理由で言うのも動くのもはばかられるのが一番大きい。
けれどハナを迎え入れてからは、ハナが甘えて、それに乗じて提案するというパターンができた。
恥ずかしいしハナを利用しているみたいで良心が痛むけど、家でのんびり過ごす時間も好きだから、その度にハナを迎え入れて良かったと思う。
自分の口から言おうと頑張ってはいる。
けど、当分はハナに乗じさせてもらおう。